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波羅門と石井秀明 text by Mamoru Kimura 波羅門創刊号が完成し我々の手元に届いた日、東京は桜の花に彩られていた。その日から約一ヶ月前、アートディレクターを担当した佐藤弦のオフィスがある赤坂まで毎日のように足を運び、振り絞るようにして編集に没頭していた石井さんは、レイアウト作業が終了し作業工程の最終段階である色校が出る頃、島へ戻って行った。 最後のレイアウトを確認した後、石井さんは佐藤ともう一人のデザイナーである内藤君に向かって深くこうべを垂れ「ありがとう。」と感謝の気持ちを伝えた後、大きなリュックサックを担ぎ、ビジネスマンが渦巻く雑踏の中へ消えて行ったという。その時の様子を二人は「とても清々しいものだった・・・。」と語った。 石井秀明と仕事をするという事は決して生やさしいことではない。二人のデザイナーは波羅門創刊のためにベストを尽くし、一生懸命に仕事に取り組み素晴らしい力を発揮してくれた。波羅門のセッションは彼ら二人にとって、忘れられない体験になったのだろう。石井さんとの仕事ぶりを興奮気味に語る二人を見てそう感じた
島から戻ってきた石井さんは、その足で銀座にある発行元に現れた。島の「気」が注入されたのか石井さんは穏やかな表情でキョトンとしていた。創刊号を手にとるとその質感を確かめるようにパラパラとページをめくりながら「一応できたな。」と呟いた。 TBSの取材を終えて銀座の町に出ると夕刻だった。その季節のその時刻にしか吹かない風がやわらかくそよいでいてあんまり気持ちがいいので、桜を見物しに行くことになり、銀座から千鳥が淵をまわって六義園へ向かった。いつもは幽玄な雰囲気の庭園は見物客で溢れ騒然としていたが、薄暮から夜の闇に移り変わる刹那の桜は美しかった。 中でも一際存在感がある老木を見上げながら、石井さんは桜の花に酔ったのか少し饒舌になり、「エロティークである、なんと、エロティークなことか。」と感嘆していた。よくよく聞いていると花ではなく枝のフォルムに魅せられているようだ。ふと気がつくと周囲の人々が僕らのことをもの珍しそうな表情で見つめていた。
石井さんと邂逅し、10年が過ぎ去ろうとしている。僕にとって「波羅門」は、10年という時間を経て初めて足を踏み入れた未知の体験だった。かつて、自分の中で波乗りはかけがいのない趣味の範囲にとどまっていた。週末になると気のおけない友達と波乗りに行く、時にはトリップも堪能する、それはもちろん素晴らしい体験だった。 しかし、波乗りに打ち込めば打ち込むほど、僕の意識はしだいに変化していった。波乗りはもっとすごい体験をもたらしてくれるのではないか、自分を全体的に高めてくれるのではないか、それまで自覚していなかった意識が芽生えどんどん強まっていって、気がついたら僕は離島に暮らしていた。 そしてこの体験を契機に僕は石井さんと邂逅することができたのだと思う。邂逅から今日にいたるまで、本当に多くを学んだ気がする。気がするというのは、僕がぼんくらの証拠で教えを消化しきれていないからだ。しかし、波乗りの未知の次元に触れたことは肌で感じることができた。 たとえば、石井さんの目の輝き、研ぎ澄まされた体躯、静かで友愛に満ちた笑顔、強固な意志、人間石井秀明は、波乗りは本当に奥が深いのだと実感させられる何かを発散していた。波乗りを表現する言葉やイメージではなく、一人のサーファーのリアルな実在がなによりも雄弁にサーフィンの奥深さを物語っていた。振り返ってみれば、10年の流れの中で石井さんの波乗りに対する姿勢は少しも変わることがなく、変わらないどころか奥へ奥へと深まっていったように思う。 僕が最初に石井さんと対面したのは、東京の大森だった。当時、石井さんはディックホールさんと共にアジアンパラダイス以来の映像作品である15years afterシリーズに取り組んでいて、僕は運よくそのプロジェクトに参加することができたのだ。今から思えば、その体験によって学んだ多くのことが僕の基礎になっていると思う。結局、4本の映像作品を上梓したのだが、1本作り上げるごとに石井さんの創造力が深まって行き、波乗りのより深いところへ向かっていくように感じた。それは、作品を作るという行為と相関関係があるようにも見えた。 作品を作り上げるためのエネルギーを波乗りから得て、その熱量は作品に込められる。普通だったら枯渇してしまい尻すぼみになって行きそうだが、石井さんの場合、その循環を繰り返すことによってどんどんエネルギッシュになって行くようだった。それは見方を変えれば、石井さんがより深く波乗りに打ち込んでいったからなのだろう。 やがて、石井さんは大森を離れ東浪見を離れ、離島へと拠点を移していった。
この間、当地では大型の台風6号からいいうねりがはいり、久しぶりに眼を奪われるような光景を見ました。熱帯から届くうねりは水の色まで変えてしまうようです。エメラルドの鏡。それはサーファーを映す鏡です。人に逢えばすなわちそこに映像が出る。映像が出れば、すなわちそこに実在した・・・この現成がリアリティーではないでしょうか。波は人を映す。明鏡止水というのがこれです。 初日は私ひとりだったので、まさに「自受用三昧」に遊化するという感じでした。{中略}波乗りという快楽はたいていの人にとってはへそ下の快楽、つまりセックスと同じで形而下の享楽に過ぎません。これをメタフィジカル(アルバートファルゾンの言葉とその作品)言い換えれば肉体を超越した形而上の快楽にまで高める。これが形而上学であり、道元の「正法眼蔵」や「存在と時間」のハイデッガーはまさにこれをやっているわけです。それと波乗りのメタフィジカルはこの宇宙でひとつに合一し、我々を形あるものから不壊なものへと導く。
畑を開墾し最低限の野菜は自身でまかない、水は近くの温泉に汲みに行き、時折恵まれる魚で淡白源を摂取する。常人ならふらふらで幽霊にでも間違われるような状態で片道約四十分を歩き、数時間波に乗る。そして身を削るような読書と執筆。自身を極度に節制し追い込んでいく生き方は現代社会において極めて稀なものだと言えるだろう。 石井さんはその生活を指して「大安楽である。」と言っていた。しかし、ギリギリの生活によって生身の肉体は確実にダメージを受けてもいたのだ。そして、その事実は意外な出来事によって発覚することになった。荒行のごとき生活も二年近く続き、たまたま交わした電話でのやりとりの中で、石井さんは自身の「波乗り」がこれまでになく調子がいいと告げていた。
その出来事が起こった日、島にはグランドスウェルが届いていたという。ポイントには石井さんと島外から来た二人のサーファーのみ。沖に一際大きなセットが入り、三人は必死にパドルしたが間に合わずその波をくらってしまったという。その時ひとりが板を投げてしまい、その板が石井さんの弁慶の泣きどころにヒットしてしまったのだ。 バックリと切れた傷口から海水へ浸透圧で大量の血液が流れ出て、意識が朦朧としながらも何とか岸まで戻ったが傷は深く、二人の車で島の病院に運ばれたという。そして、その病院で血液検査が行われ血液中のヘモグロビンの数値が極端に低いということが判明したのだ。そのような数値に至るということは内臓のどこかから出血しているとしか考えられないから、即刻精密検査を受けるよう勧められ、それにしても普通の人間なら立っているのがやっとの状態でなぜそんなに元気なのかと不思議がられたそうだ。当人は「私は修行の身で霞を食って生きていますから。」とすずしい顔をしていたに違いない。波羅門創刊の話が起こる数ヶ月前の出来事である。 したがって、波羅門の編集長を引き受けた時すでに石井さんの身体は極度の貧血で通常の人間なら立っているのがやっとの状態だったのである。そのような健康状態の人間が編集長という激務を遂行するということは自らの命を危険にさらすことにもなりかねない。それに、本人をして「大安楽」と言わしめるほどの生活に不足など無かったはずである。 いったいなぜ石井秀明は波羅門の編集長を引き受けたのだろうか・・・。そこには極めて高次元の意識が働いていたことを、僕自身今になって認識することができた。それを気づかせてくれたのは島での修行に没頭していた時期に、石井さんから届いた一通の手紙だった。 当時は何が書いてあるのか理解できなかった手紙を改めて読んでみると、乾いた土に水が染みこむようにその意味が伝わってきた。非常に重要なメッセージが込められていると感じたので、一部を抜粋したいと思う。先に引用した手紙から約10ヶ月後、2005年3月18日消印の手紙である。 貧道は、すでに「波乗りと精神」第百節において「波乗り陀仏」を提唱した。それからすでに数年経て、今はその実践に明け暮れる毎日である。この毎日は、「ふく風たつ浪の音までも念仏ならざることなし」、すなわち念仏とは「波乗り陀仏」である。{中略}そしてこのテイクオフとは最上無為の妙術、自受用三味に他ならず自らを利することこの上なし。波乗りは板の上にひとりで立つから、その意味で小乗の自利行であるが、これを大乗の菩薩行(道)にまで高めることが小生の願であった。
波羅門創刊号の冒頭、MEDIA RENAISSANCEの中で、石井秀明は「私が媒体である。」と述べている。自身が媒体になった時点で、すでに自我は消え去っていて、後は修練の末会得した技法のみが働く・・・。そうして、雑誌という媒体に現れる表現は石井秀明個人を超えた力を備えるのだ。自分自身を含めてサーファーという人種は普段からリスペクトなどという言葉を使っているわりには、知らず知らずのうちに自分を過大評価してしまい、謙虚さを忘れがちである。謙虚さがあってのリスペクトなのだという大切なことをつい忘れてしまうのだ。僕自身は波羅門創刊号を読んで謙虚な気持ちの大切さに改めて気づくことができた。メディアには力が宿るのだと思う。 不思議なもので、編集長として動き出した石井さんはどんどん元気になっていった。責任ある立場についたからだと思うが、珍しく病院へ出向いて精密検査を受けたところ、胃腸の内壁に潰瘍が治癒した痕があったようだ。対症療法に頼らず治癒したことになる。いずれにしろ石井さんが悪い病気ではなかったということで、スタッフ一同ほっとしたものだった。 2005年初夏、波羅門が動き出した。「起こるように、起こさせる。」という石井さんの言葉どおり、動きだしてから完成するまで様々なことが起こり続けた。創刊号で書いた松部の記事は、現場で実際に見て聞いた出来事をできる限り忠実に伝えるために書いたつもりだが、あらかじめ用意されていたジグソーパズルのパーツが見えない意志の力で整然と組み合わされていくような、それまで自分が世界に対峙してきた次元とは明らかに違うダイナミズムでリアリティーが生起していったのだ。そして、その事実こそ僕にとってもっとも印象的で重要な事実であり、その事実を受け入れることで僕の根深いニヒリズムが少しずつ解体していったのだ。現代人は目前で繰り広げられる現実に対して「自分自身の力で現実を切り開いていく」というような挑戦的な態度をとるか、もしくは「どうせ運命で決まっているのだから」というようなしらけた態度をとるか両極端な場合が多いような気がする。僕の場合、前者のようなふりをした後者の部類の人間だったと自分自身思い至った。「起こるように、起こさせる。」というスタンスの根底には、世界に対して謙虚に接しながらもビジョンを信じて目の前の出来事にベストを尽くす精神が鮮明に息づいているということを知った。 2006年11月、日本での取材を終えた石井さんはカリフォルニアへ飛んだ。創刊予告号の製作から稲村と松部の取材、そしてクリスラッセンの取材と原稿の執筆、結構ハードスケジュールだったので、疲れがたまっているのではないかと心配したのだが、カリフォルニアでは、THE
SURFの鬼頭氏とともに波乗りにいそしむとともにダンマーケルのエージェントであるA FLAMEのオフィスでポジチェックをこなし元気な様子で帰国した。そして12月、メインイベントであるノースショアへ旅立っていったのだが、そこで石井さんを待っていたのは、いくつものアンリアルな出来事だったのである。
1月4日、ハワイの取材から戻った石井さんと打ち合わせをした。その打ち合わせはなんと12時間にも及んだ。実務的な話はすぐに済んだのだが、ハワイでインスパイアーされた石井さんのエネルギーが溢れ出て止まらなかったのだ。日本で起こり続けていた奇跡はハワイでさらに起こり続け、その渦の中心にいる石井さんはとてつもなく高揚していた。ラビットバーソロミュー、ランディーラリック、フレッドへミングス、ベンアイパ、ビルバーンフィールド、リンボイヤー、ケンブラッドショー、25年ぶりのハワイの取材で事前の段取りなど何一つせずに数々の奇跡的なインタビューが実現したのだ。しかも、日本のサーフィンジャーナリズムの礎である人物が25年ぶりにジャーナリストとしてハワイを訪れた其の時は、世界のプロサーフィンが始まって30年という記念すべき時だったのである。小さなテープレコーダーに収録された貴重な肉声を文字にするため、そしてその宝物を「表現」にするため、石井さんは再び離島に向かった。 創刊号が完成した後、石井さんが僕に語ってくれたことがある。それは「書く」ということの意味についてだった。テープレコーダーを聞きながらその体験を追体験していく。するとリアルタイムでは感受できなかったものが浮上してくる。そして「書く」という行為が始まり、その行為によって始めて「起こった出来事」の本当の意味を知ることができるというのだ。 インタビューに限らず文章を「書く」という行為が、リアリティーをより深く知るために、自分自身をより深く見つめるために、非常に有効な方法であるということを石井さんが教えてくれた。 編集作業も大詰めのある日、僕はレイアウトを持って東浪見に石井さんを訪ねた。その時、二匹いる犬のうちよく吠えるほうの犬の姿が見えないのでどうしたのだろうと思ったのだが、そのまま、石井さんと打ち合わせを済ませた。ひとしきりして唐突に「犬が死んだよ。」と石井さんが言った。埋葬するために、硬くなった犬の亡骸を小屋の中から抱くようにして外に出した石井さんは犬の横顔にしばらくの間無言で手をあてていた。その時間はとても長く感じられたのだが、次の瞬間、表情を失った犬の横顔に大粒の涙が一粒か二粒零れ落ちて消えていった・・・。命がけの仕事を全うしようとしている人間がまさに成就を迎えようとしている時、彼が愛してやまない存在がこの世を去っていった。僕にはこの出来事がただの偶然とはどうしても思えなかった・・・。
2006年夏、松部の取材のころには土色だった田んぼに再び鮮烈な緑色が戻り、東浪見にまた夏がやってきた。海岸へぬける木立に囲まれた小道にはむせるように植物が群生し、その緑色の海の中に小さくて質素だが白や黄色の野の花が咲いている。視線の前方にはいつも蝶がひらひらと舞っていて海へと誘っているようだ。光と影が織り成す陰影の中をぬけると、しだいに波の音が強くなり風の中に潮の香りが混じってくる。足元の草が消え砂だけになると、一気に空が広がり波が繰り返し押し寄せている。
夏場の東浪見は向かって右側の堤防からのレギュラーが決まることが多い。ある日、出遅れた僕がすでに夜明けから沖にいる石井さんの近くまでパドルしていくと、「キムラ、三昧だよ、はらわた振り絞ってるよ。波乗陀佛になっちゃうよ」と満面の笑顔で振り返り、次の波にテイクオフしていった。 この夏、石井さんは6'6のスティンガーを駆って東浪見の波と一体になっている。聞くところによるとスティンガーの考案者であるベンアイパの記事を書いていたところ、スティンガーが眼のまえに現れたのだという。相変わらず不思議なことが起こり続けているようだ。そして、波乗りに対する情熱はとどまるところを知らず、さらに深まっているのが感じられる。それに比例してクリエイティビティーも高まっているはずだ。なぜなら、前にも書いたようにそれが石井さんのスタイルだからである。 |
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