波乗りとエクスタシー 第ニ巻


11:キリストの弟子 12:仏陀の弟子 13:画 家 14:天心と日本画 15:『「いき」の構造』とアニマ  16:内なる異性 
17:フェレモン 18:フェロモン 19:エロース(愛)とプシケー(精神)  
20:波乗りとプシケー(女性)



11、キリストの弟子

 内村鑑三は札幌農学校在学中の明治十一年キリスト教の洗礼を受け、卒業後一時水産関係の仕事に携わったが、十七年渡米してアマースト大学で地質や鉱物学を学ぶも、志が変わりハートフォード神学校に移って二十一年帰国した。はじめミッションスクールで教鞭をとったが宣教師と衝突するなどたびたび職を変え、二十四年たまたま講師として奉職した第一高等学校で例の「不敬事件」を起こすのである。
 内村の「武士道的キリスト教」の基礎は、「青年よ大志を抱け!」のスローガンで有名な札幌農学校初代指導者クラーク教授の影響によるものだろうが、それはクラークがニューイングランドのピューリタンであり、南北戦争直後の人道主義的な軍人であったことと無関係ではない。なぜなら、内村は江戸の高崎藩邸で生まれたように厳格な儒教的武士道精神によって育てられながら、維新の改革に遭って武士道のモラルが現実の社会において適用の場を失い、その情熱のはけ口を求めていたところへ、先方も内村のような情熱を受け入れるに好都合な条件を持ち合わせていたからである。
 しかし実際に米国に渡って現実を見ると、土着の「生来の基督教徒」が、既得の信仰の上に安住しており、鑑三の「初心」である異教性が叛逆心となって頭をもたげるのだった。キリスト教道徳を儒教道徳の延長あるいはその完成のように考えた彼には、米欧のキリスト教が堕落したものと映り、そこに安住する宣教師たちが許せなかったのである。
 「伝道は福音の敵だ」という内村の変わらぬ信念は、どうやらこの辺りに兆していたようだ。だから、生来のキリスト教徒を嫌い、みずからを「基督教徒」と名乗らず「基督信徒」と名乗ったのだろう。ところが、「非戦論」後の聖書研究で次第に明らかになったことは、自分こそキリストの弟子としてキリスト教の正統であり、正統のキリスト教は日本であるということだった。・・・「何故なら異教徒として生まれることに幾多の利益があるからである。異教は、思ふに、人類の未発達の段階にして、キリスト教の如何なる形態に依りて達せられたる段階よりも高き、より完全な段階に発展し得可きものである。未だキリスト教によりて触れられざりし異教国民の中に永遠の希望が存する。」・・・
 この考えはしかし、鑑三のうちに早くから兆したものであり、福音の至高の状態にまでこれから高められる特権をもつ異教徒こそ、生来のキリスト教徒よりはるかに幸福だという。日々新たに神の摂理と恵みを感謝することができたのはこの異教性のおかげであり、それが信仰の源泉であると表明するとき、彼は異教徒でありアウトサイダーだった。
 「基督教何ぞやと問えば今の、殊に米国流基督信者は答へていふ、<社会的奉仕>(ソシアル・サービス)と。即ち社会本位の基督教である。<ああ我れ悩める人なる哉>といはないで、<ああ不完全なる社会哉>と叫ぶ基督教である。故に彼等は新約聖書そのままの信仰を懐き得ない。社会的基督教にキリストの奇跡的出生、彼の復活、彼の昇天、彼の再臨等を信ずる必要はない。」(『モーゼの十戒』)・・・ここにキリストの奇跡的出生や、彼の再臨というようなミスティックな問題がまた新たに出てきた。そして「キリスト再臨運動」は彼の「無教会主義」につづき内村鑑三のライフワークになったのである。しかしキリストの奇跡的出生や再臨にことが及べば、それはキリスト教にたいする信仰ではなく、イエス・キリストその人に対する彼の絶対的信仰であり、すなわち神への信仰であった。
 キリストの奇跡的出生とはいわゆる「処女懐胎説」のことだろうが、このような観念はどのようにして生まれたのだろうか?・・・ そもそも処女の母親から生まれる者など一人もいない。そんなことは起こり得ないはずだ。イエスが言わないとすれば、弟子のいったい誰が言ったのだろうか? ペテロだろうか、マタイだろうか、あるいはトマスだろうか? 鑑三が尊敬したのは旧約ではモーゼ、新約ではパウロだった。旧約の研究によって彼が、文明国エジプトから新興のイスラエルを救うモーゼの使命を説く時、ややもするとエジプトをアメリカにイスラエルを日本に擬したうえで、モーゼがイスラエルを救ったことと自分が日本を救うことの間に事情の差が大きいにもかかわらず、あたかも自分がモーゼになったような混同をおかしつつ、この脱出が民族の自由への解放である点で彼の近代政治論に結びついたりする。だから旧約の英雄はモーゼだが、新約のそれはパウロで、ペテロをもっとも嫌ったようである。その点では尊敬するパウロも例外でなく、鑑三の教会排撃は、後世の制度化され堕落したそれに劣らず初代教会にも及び、ペテロがその元凶であった。
 イエスの教説は、仏陀のそれと同じく後世の修整が多く、また後世の都合で削除されたものもあってなお不明な部分が多い。どうやら「処女懐胎」のような概念は、ペテロのようなモラリスト(道徳家)から出た可能性が高い。というのも、私には鑑三のような聖書研究に至る動機がなく、それについて確かなことをいう信念がいまだ生まれないのだが、たとえば河上徹太郎が何度も信者でないことを断わりながら、結局、そこに行き着かざるをえない人間の歴史的、本質的事情がキリスト教にあることだけは確かなのである。・・・聞いた話だが、イエスが処女から生まれなくてはならない事情は、イエスになく、弟子のペテロの方にあった。
 このシモンと呼ばれたペテロが無類の道徳家である理由は、彼が自分の不道徳に罪悪感を抱いていたからである。このゆえに彼の師であるイエスは、罪を犯したことがなく、清純で、純粋無垢でなくてはならない。イエスが処女から生まれたという主張は、セックスを不道徳なものとして見るからであり、不道徳なものから生まれるものは、完全に道徳的にはなりえないからである。聖ペテロはキリスト教会の正統であり、その土台であり、いしずえになった人だ。したがって、キリスト教の教会は全体が道徳的となり、宗教ではなくなった。ペテロがその原因であり、彼が罪悪感をつくりだしたというのである。
 内村鑑三はこの教会に反対し、聖ペテロに反対している。なぜなら、彼等が教会をつくったからであり、イエスがそれに反対していたからである。この事情を彼は『新約聖書』の中の比喩から選び出して、解説する。・・・それはイエスがエルサレムにおける受難を弟子達に予告したとき、ペテロが主の身を案じ、かつまた生きて伝道した方が福音のためだといって制止する場面である。イエスは怒って、「サタンよ我が背後に退け、汝は我につまづく者なり、それ汝は神の事を思はず、人の事を思ふなり」といった。・・・これに対する内村鑑三の解釈は、・・・「ペテロのこの精神、即ちただ身の安泰を計って伝道の実績を挙げようというのが教会的精神なのであって、イエスはこれを見抜き、それを<人の事を思うもの>ときっぱりはねつけたのだ。つまりこの時期には使徒たちはやがて教会を建てて、法的勢力の拡張をはかる宗教上の政治性の端緒を見せ始めたのだ。・・・」というものだった。昭和五年一月、それは鑑三の死の二か月まえに書かれたものだという。
 では、キリストの「再臨」とは何か? 私が『日本のアウトサイダー』を読んで一番感動するのは、信者でもない河上が鑑三の人間性に惹かれて知らずに聖書を研究し、キリスト教を研究した結果、次のように言えたことである。・・・「鑑三のキリスト再臨説は、その思想の根幹でありその頂点である。ここに至って彼の思想の奔流は、その豊かな水量を以て渦巻き泡立ち、見て壮観であるあるのみならず、われわれの足許をすくう勢いで押し寄せてくる。大体鑑三という人は、明治という時代の突端に立って、二千年(あるいは数千年)流れてきたキリスト教の歴史を横にガッシリ裸身で受け止めた人である。」・・・
 私が感動するまえに、河上自身が感動している。でなければ、私が感動できるはずがない。「だから彼の中に、罪、十字架、復活、再臨の約束がすべてごまかしなしに活きている。彼はそれを一個人、一世代の異教徒の下に身につけるのだ。<キリストわれにありて生く>の実感は、二千年前の改宗者パウロにおけるような悲劇的な現実性はなくとも、明治初期の文化人には異常な実存性を持っているのである。」・・・
 そこで「再臨」だが、鑑三のいう再臨とは、すなわち我々の罪に対し、律法的道徳がその個別的な外傷療法に過ぎない時に、全く無垢な「人の子」であるイエスが我々のあらゆる罪を背負って十字架についた。この生身の罪を贖った肉体は復活せねばならず、この傷ついた肉体と愛の約束を交わした現世は、必ずいつの日かそのすべての歴史的現実の保証のために、この肉体そのものの「再臨」を見なければならないというものである。これが最後の審判の倫理であり、再臨の論理である。だからキリスト教を信ずるなら、再臨まで信じなければ不徹底だというわけだ。しかしここで、「すべての歴史的現実の保証のために」とは、いったいどういう意味だろう。ここにわれわれの「時間」という概念が、そもそも、キリスト教に由来する事実を思い出さなければならない。西暦紀元前と紀元を分けたのはキリストである。これには一体どいう意味が隠されているだろう?・・・
 武者小路実篤はどうして、内村鑑三をニイチェ以上と言ったのか。その真意はわからない。だが、彼もキリスト者であり、「時間」と関係がありそうだ。なぜなら、哲学とはまだ問うことができ、答えることができ、延期することができる贅沢な時間の中にある。ところが宗教はちがう。この瞬間だけが永遠の今だ! 再臨説に従うなら、キリストの第一と第二の降臨の間に「歴史的時間」が流れており、この水平の歴史的時間にイエスの「実存的時間」が垂直に突き刺さっているのである。これが十字架の意味だ。すなわち十字架の水平線は時間を意味し、過去・現在・未来と水平に流れてゆく。これに対し十字架の垂直の線は永遠を意味し、高く高く垂直に延びてゆく。時間と永遠が出会ったところが十字架であり、その交差するところが死であらねばならない。それが永遠の「今」であり、最高のエクスタシーである。あなたがもし、究極の状態にあるなら、そのとき時間は消えている。チューブの奥深くにいるサーファーが<永遠>を感じるのはこのためだ。

( Nov. 22 , 2002 )


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12、仏陀の弟子

 
 舞踊の神様ワスラフ・ニジンスキーに伝説的な「神との結婚」事件がある。サンモリッツに隠退していたワスラフは、踊ってくれと頼まれておおぜいの観衆のまえに立ったが、三十分近く何もいわず立ったまま、ただ一点を見つめるだけだった。観衆はまるで催眠術にかかったようにじっとしていると、やがて「戦争の苦しみと死の踊りをします・・・みなさんが阻止しようとしなかった戦争、それゆえみなさんに責任のある戦争、それを踊りましょう。」と言って、ワスラフは踊りはじめた。その踊りは空前のもので、観客はまるで石のように固まって動けなかったという。・・・彼はローマカトリックの信者だったが、この話を聞いてわたしが思い出すのは仏陀の「拈華微笑」(ねんげみしょう)の伝説である。
 ゴータマ・ブッダは三十五歳で成道して八十歳で亡くなるまで伝道の生涯を送ったので弟子が多い。仏陀は言う。「真実はダンサーの中に見て取れる。そこにはダンサーはなく、ただダンスだけがある!」 その通りワスラフが踊るとき、ワスラフは消えて、ダンスだけがあった。川を見ればそこに川はなく、ただ水が川となって流れていることだけがある。だから「河」といい、水は流れて「海」となる。仏陀が微笑みを見れば、そこに微笑んでいる人はなく、ただ微笑みが微笑んでいるだけである。ある時、こんなことがあった。
 仏陀は手に一輪の蓮の華をもって聴衆のまえに静かに坐った。おおぜいの弟子や信者たちは、彼が何か言うのを今やおそしと待ち構えている。しかし仏陀はただ蓮の華を見つめるだけで、三十分近く何も言わなかった。聴衆はまるで催眠術にかかったようにじっとして、そこにはただ静寂があるだけだった。しかし、弟子や信者たちは不思議におもった。なぜなら仏陀がそのようにされたことは、かつて一度もなかったからである。そのとき、弟子のひとりマハーカーシャパ(摩訶迦葉=まかかしょう)が一人だけ微笑んだ。そこで仏陀は摩訶迦葉を呼び寄せ、その花を渡して言った。「語りえることはすべて語った。そして語りえないことは、いま、このマハーカーシャパに授けた。」・・・これが禅宗のおこりである。
 「釈迦牟尼仏は、七仏己前に、成道すといえども、ひさしく迦葉仏に、嗣法するなり。」 ・・・という道元の言葉は、仏陀の「拈華微笑」の伝説をメタフィジカルに言い直したものだが、それは<十字架>、すなわち究極のエクスタシーを意味する。ゴータマ・ブッダがここで釈迦牟尼仏といわれ、「七仏己前に」成道したという。この「七仏」とは、釈迦以前の仏である。「迦葉仏」(かしょうぶつ)はその第六祖であり、釈迦牟尼仏は七番目だ。七番目である釈迦が、七仏以前に成道することは常識ではありえない。この奇跡を起こすのは「宗教」である。イエス・キリストは処女から生まれた。そして、十字架の上で死んだ。この十字架によって時間が過去と未来に別れ、そこに永遠に同一なる真理が現成している。すなわちゴータマ・ブッダが「常住霊鷲山」(じょうじゅうりょうじゅせん)というところが、この十字架の交差するところである。つまり仏陀がいまここの現存在において耐え抜いて、新しい仏教の文化を創造するときに、仏陀のいまここの現存在は、古い時代から新しい時代への歴史の転回点、すなわち十字架の交差点になっているわけだ。
 仏陀はいったい何を耐え抜いて、七仏以前に成道したのか?・・・七仏の第一祖毘婆尸仏(びばしぶつ)は、過去荘厳劫の第九百九十八尊であるというが、いずれもインドの仏でありバラモンである。釈迦は、イエスがユダヤ教の異端だったように、バラモン教の異端として、古代バラモンの伝統である祭儀文化の輪廻業思想を耐え抜いて、新しい仏教文化を創造したのである。ユダヤ教の異端であるイエスは、異端であるゆえに十字架の上で殺されたが、インドの最上層であるバラモン(僧侶)は、クシャトリア(王族)の意見を容れて、仏陀やマハヴィーラを殺さなかった。仏陀は釈迦族という有力な王族の出身であり、二十九歳のとき彼の城と一族を捨て、乞食(こつじき)による修行生活に入った。その根本は、いかにして輪廻業思想のニヒリズムから解脱して自由になるかにあったのである。
 要するに、道元が「釈迦牟尼仏は七仏以前に成道す・・・」と言うのは、ゴータマ・ブッダの<無我>なる現存在が現成(げんじょう)して、古代バラモンの祭儀文化の根源にある真理を嗣法しながら、新しい仏教文化の根源にある真理を説法しているという意味である。そこで『伝燈仏祖法系略図』を開くと、釈迦牟尼仏を筆頭に第一祖摩訶迦葉の名をわれわれは見るわけだが、禅宗始祖の菩提達磨はそこからさらに下ること「西天二十八祖」である。このボーディダルマを震旦(チーナ・スターナ=中国)初祖として、二祖神光慧可から大鑑慧能まで六祖ある。さて、ここから永平道元(1200ー1253)までの法系図は『波乗りと精神』のどこかですでに述べた。すなわち永平道元の『正法眼蔵』は、彼が仏陀の弟子であることを証明した形而上学である。
 残念ながら内村鑑三の『聖書之研究』には、道元のような形而上学はなかった。しかし仏陀は形而上学を否定し、仏教は初め小乗であったものが、のちに大乗の形而上学に発展したものである。イエスもまたペテロを否定し、教会を否定した限りにおいて、仏陀とまったく同じ考えだった。ところで、イエス・キリストの伝記として、今日われわれが知ることのできる唯一の文献は『新約聖書』である。ところがこの『新約聖書』のうちで最も古いイエス伝といわれる「マルコ伝」は、紀元六十五年ないし七十年の作とされ、その著者であるマルコはイエスの使徒ペテロの弟子である。マルコによればイエスは、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(「わが神、われを見捨て給うや」)といって死んだという。それは失敗した一宗教家の悲劇的な死に過ぎなかったはずだが、イエスなきあとペテロやヨハネによって準備され、パウロによって大成された形而上学は、それをローマの支配的な思想にまで押し上げ、さらにそれによって近代西洋文明誕生のエネルギーの源泉となるような、驚くべき奇跡を実現したのである。それは神の子から生まれた形而上学であった。
 一方、バラモンの異端である仏陀は、百歳の天寿のうち二十歳を弟子たちの成道のために残し八十歳でこの世を去るが、その死を伝える『大般涅槃経』には、『新約聖書』に見られるような修飾がない。ヴェサリ(毘舎離)の町を経て、ヒラニヤヴァティの河を越え、クシナーラの沙羅双樹の間に頭を北に向けて仏陀は横になり、「仏・法・僧のすべてについて疑いと惑いのある者は何でも問うように。」と弟子たちに三度いった。誰も問う者がないと最後に、「弟子らよ、おまえたちに告げる。諸行は壊する性質ものである。はげみつとめるように。これが如来の最後のことばである。」といって、静かに息をひきとられたという。スバッダという修行者が、釈尊が重体であると聞いて駆けつけ、どうしても会わせてほしいと願い出てアーナンダに拒絶されるが、釈尊が会われたので彼が最後の直弟子となった。そのとき沙羅双樹は時ならぬ真っ白い花をつけ、仏陀の上にふらせた。
 仏陀とその弟子、イエスとその弟子、ボーディダルマとその弟子、道元とその弟子・・・この関係は基本的に同じであるはずだ。なぜならその現象はみな同じだからである。イエスはペテロに向かって、「サタンよ我が背後に退け、・・・」と言った。ペテロが教会を創始した。ペテロとは、教会の立つ基礎、すなわち「岩」を意味する。仏陀の弟子にも、マハヴィーラの弟子にも、ペテロのような人はいなかった。ボーディダルマの弟子や、道元の弟子にも。その典型的な例が仏陀とマハーカーシャパの間で交わされた<拈華微笑>である。そこには言葉もなく、経典もなく、理論もなく、教会もない。
 しかし、何かが伝えられた。仏陀のこの教えは、アヴィヤークリトパデーシャ(avyakritopadesha) という。それは語ることのできない教えである。仏陀から摩訶迦葉に与えられたものはなにもない。ただ花一輪である。しかしマハーカーシャパは突然なにかを理解した。仏陀が何も言わない。その静寂を理解したのである。静寂には境界がない。だから、静寂を通して、仏陀とマハーカーシャパがひとつになれた。禅宗が不立文字といって、只管打坐するのはこのためである。
 ニジンスキーは仏陀と同じようにおおぜいの観衆の前にして、三十分近く一点を見つめたきり何もいわなかった。観衆は催眠術にかったように動かず、静寂は海のように四方に開かれ、ダンサーとの間に境界がなくなる。観衆と彼がまったくひとつに融け会ったとき、ニジンスキーは「戦争と死の踊りをします・・・」といって、舞いはじめた。この状況を想像するといま、おのずと鑑三の『非戦主義者の戦死』の一節が思い出されてくる。・・・「逝けよ、両国の平和主義者よ、行いて他人の冒さざる危険を冒せよ、行いて汝等の忌み嫌ふ所の戦争の犠牲となりて倒れよ、戦ふも敵を憎むなかれ、そは敵なるものは今は汝に無ければなり、只汝の命ぜられし職分を尽くし・・・」
 ニジンスキーは何よりも平和を望んでいた。彼にはすべての人間にたいして、胸をかきむしる憐憫の情があり、それを踊る。鑑三には、自分が戦争に行かなければ誰かが自分に代わって倒れるから、行かねばならないという気持ちが強くあった。この気持ちの底には、「罪なきキリストが十字架で刑死したのと同じ理由で、平和主義者は戦死しなければならない」という感情が働いていた。彼はイエスの弟子であり、ペテロのそれではない。ペテロは聖職者であり、聖職者は宗教の敵だ、と彼らは考える。彼らとはイエスの弟子であり、仏陀の弟子であり、すべてミスティックな人々(神秘家)のことである。
 静寂には境界がない。ふたつの静寂は別れたままではいられない。だから一つになる。ニジンンスキーはなぜ、仏陀のように、静寂を求めたのだろうか・・・? それは舞踊の神様といわれた彼の創造的衝動であり、彼のダンスは自己の本体が一時的に消滅して神の本体に溶け込み、それと一つになることだったからだ。「わたしは神だ」というように、彼の『日記』に毎ページ「神」が出てくるのはそのためだが、神は実際踊って、その踊りと一体になるようなようなダンサーに似ている。静寂から静寂を分かつことができないように、ダンサーから踊りを分かつことはできない。踊る神シヴァのことをヒンドゥーで<ナタラージ>と呼ぶのは、それが最も偉大なダンサーを意味するからだ。仏陀とイエスは、ともにナタラージを知っていた。われわれは仏陀の弟子であるか、イエスの弟子であるかであるまえに、ひとりのダンサーなのである。                

( Nov. 23 , 2002 )


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13、画 家

 
 ペテロは教会道徳、反セックスの砦となったが、神学の基礎を築いたのはマタイといわれている。マタイはイエスを尊敬し、イエスの言うことなら何でもメモにして、そこから福音書を創りだした。だが、知識を集めるだけなら勤勉であればよく、自分を変容させる必要はない。知識は借り物であり、表面 的なものであり、死んでいる。それに耳を傾けて知識を集めるだけなら、われわれは生きたことにならない。われわれが生に目覚めて、自らの存在を求め、真の自己を生きようとするなら変容は不可欠である。そのためには沈黙しなければならない。
ペテロやマタイは主を取り逃がした。イエスや仏陀は、いわゆる知恵者ではない。知恵そのもである。その知恵は、人間の知性による知識ではなく、まったく違う次元の源泉からきている。それは知識ではなく、光であり、彼らの存在を通 して知覚された。それゆえ、彼らは<光明を得た人>と呼ばれる。この<光>を画家の立場から見るとどうなるか?
 われわれはすでに世阿弥やニジンスキーのところで、ダンサーからダンスを切り離せないことを知った。ダンサーから踊りを分離することは出来ない。サーファーから波乗りを切り離すことは不可能だ。しかし、画家が描いた絵が作品になったとき、その絵と画家は分離している。絵は画家の手を離れ、リリースされた。ダンサーを主体とし、ダンスをその客観として見るならば、主体としての画家は、絵という客観に対して媒体であるにすぎない。
 ニジンスキーの場合、「わたし神であり、わたしは神なのだ」と言ったように、彼のダンスは神の媒体として存在し、表現されていた。太古の詩人は神の媒体となってものを言った。それが言葉である。太古の画家は、神が創造したものをそのままに写 そうとした。だから絵画や詩は、古代ギリシアでは職人の芸とされ、プラトンに芸術模倣説があるように、後世の分類では模倣芸術に属する。それは神の模倣であった。つまり絵画が美的観念になるのは中世以降、それも極く近代のことであり、古代の壁画などは芸術的意図で描かれたものではなく一種の教化、いわば神の<絵解き>だったというわけである。
 最近「エステ」とよくいう esthetic (エステティック=感性論からきた「美学」)という観念は、十八世紀のカントのころから言われたもので、神的、形而上学でない感覚的なものを表現することに積極的に意義を認めることで美学が論じられ、そういう立場にたってはじめて絵画や彫刻が「芸術」と認めれられるようになった。様式を重んじた中世の画家においてはまだ、型を学ぶ長い徒弟時代を経てはじめて「マイスター」になれたのである。
 世阿弥は型を学びながら、みずから「能」という様式をつくった。様式を創るために、世阿弥は型を模倣した。徹底的に模倣することによって、彼はついに従来の型を破るところまで行き着く。それは型が堕落したのではなく、新しい様式が生まれたのであり、非常に偉い人間が出て来るとそこに型が生まれる。
 つまり世阿弥は型を破ることにおいてアウトサイダーだったが、いったんこのように生まれた様式が伝統となり、それを正統に伝える者はインサイダーである。正統は伝統と無縁ではないがこの意味で別 物であり、伝統とは過去にあって自分の外に繋がるものであるが、正統は直接自分の中にあるものである。だから世阿弥の能は、彼の中で正統であったものが、伝統として様式になった。
 芸術家としての画家は、いま見たように近代において可能になったが、たとえばセザンヌの絵はあくまでも絵であり、その価値はきわめて大きいとコリン・ウィルソンはいう。この場合セザンヌの画家としての価値は、その絵を置いて他になく、いわゆる「マイスター」としての価値だろう。ところが、ウィルソンはこのような価値とはまったくかけ離れた存在としての画家を、彼の『アウトサイダー』のなかに登場させた。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853ー1889)が、その人である。
 ゴッホは新教の牧師の子としてオランダに生まれ、十六歳のとき家を出てハーグの美術商のもとで働き、二十歳のときロンドンに来た。そこで不幸な恋愛を体験し、いったん父のもとへ帰ったが、一年後に再度ロンドンに戻り同じ娘に求婚して断られる。黙考型の人間になった彼は神秘主義的になり、パリでは聖書を読んで感想を書いたりしたが、再びロンドンにもどると貧民窟に身を投じ、牧師になろうと決意する。
 牧師になった彼はベルギーの炭坑で坑夫とともに暮らし、その実践的行動として惜し気もなく自分のお金や衣服を与え、ついには坑夫より貧困の身となった。しかも一聖者の自発的困窮に同情する坑夫はなく、結局オランダでブルジョワの親族に囲まれての修行が実らかったように、牧師としてもまったく失敗して、任地から呼び戻された。絵を習う決心をようやく固めたのは、この時である。
 ところが、またしても不幸な恋愛事件が持ち上がり、これに失敗すると今度は妊娠した街の女を連れ込み、友人たちからも見放される。この辺の痴話騒ぎは、サマセット・モームの『月と六ペンス』によって記述されたゴーギャンの伝記(『精神』二十七参照)を見るようだが、健康を害したゴッホがパリを離れ、南フランスでゴーギャンと一緒に生活するのは、ゴッホがピストル自殺を遂げる一年前の1988年である。しかしさすがのゴーギャンも、ゴッホに剃刀を持って襲いかかられ、そのあとでゴッホが自分の耳を切ってマッチ箱に詰め売笑婦に贈るに至っては、ついていけなかった。もっともわれわれの問題は、ショッキングな彼の実生活にあるのではない。・・・ゴーギャンが、「こんなふうに椅子を描いた者はこれまで一人もいない!」と歓喜の叫びをあげた、ゴッホの絵である。
 「青年時代のヴァン・ゴッホについてたしかに言えることは、宗教感情が強烈だったという一事である。」と、コリン・ウィルソンは述べている。彼はゴッホをひとりの画家というより、神秘家として描いた。その表現は的確である。この宗教的感情を分析すれば、「宇宙には人間よりも高次の力が存在し、人間はそれは仕えることによって最高の目的を達成するという観念に帰着せざるをえない。」・・・最高の目的とは、自分の存在が宇宙および自己自身と完全な調和に達することである。
 この瞬間以外の時間は、この悟りの境地を再びとられるための苦闘にすぎない。宇宙に秩序があり、われわれがこの秩序を知覚し、自分がそれと完全な調和にあることを感じることが出来るならば、この秩序は見そして感じることの出来るものである。それなら何らか修練によって、われわれは再びそれを捉えることができ、波乗りや芸術はこのような修練の一例であるというわけだ。
 ゴッホにとって、またわれわれにとっても不幸なことは、この問題を複雑にする人間的な欲望である。それは交際と理解を求め、自分もまた社会生活に参与していると望む欲求であり、雨露をしのぐ屋根と飲食物を求める筋違いな欲求である。ほかにもっと重大なことがある者にとって、それはたやすいことでなく、それゆえにさらにそれを困難にさせるものは、「もしかしたら自分はまちがっているのではないか?」という疑念を起こさせる敵意に充ちた「世間の眼」である。こうした緊張のあまりゴッホのようなアウトサイダーはしばしば自殺を考えた。そうすると宇宙の方で再び秩序が筋を通 しはじめ、彼はその目的である調和を垣間見る。しかもこの調和は、あわゆる感覚の燃え上がりであり、一般 市民の感知せぬ覚醒状態の実現となる。この状態は人間に知られることが余りに少ないため、人間がこれを正確に言葉で表現することは不可能なのである。
 この意識状態を言語とは別の媒体によって表現したのが、ゴッホの絵である。だからゴーギャンが『黄色い椅子』を見て、こんな椅子を描いた者はいないと驚いたのは、絶対的少数者が生涯に一度みるかぎりの悟りの境地を表わしたものだったのである。それは人間知性の思考でなく、人間存在の感覚による直接的な知覚である。ここには社会生活における「肯定対否定」という貸借対照表のような対立とバランスは消滅し、不幸は存在しても、まったく問題にならない。
 なぜならこの知覚こそ、いままでの人間が誰ひとり見たことのない光明であり、彼にとって肝心なのは「これ」だけだからである。ゴッホの絵は、光と形によって、「これ」を表現した。変容した彼の視覚でとらえた麦畑の色彩 は変容し、夜空の星は流れる潮の交差する海面となり、樹木の緑はその強烈な生命力によって燃え上がる。一脚の椅子が、古い長靴が、そして玉 ねぎまでが変容する。
 ゴッホは『黄色い椅子』を描いた翌日、ゴーギャンと口論となり、弟のテオへ手紙を書いた。テオへ宛てた最後の手紙の末尾には、「・・・ところで、わたしの仕事だが、わたしはそのために生涯を賭けた。そして、わたしの理性はなかばまで瓦解した。・・・」と書かれていたという。それまでは、自分の描く絵が生活の足しになる見込みがないと思う程度だったが、このとき突然、絵そのものが見込みなく拙劣に見えてきた。彼は自分の異常な能力を絶えず過小評価し、他の人々を過大評価したのである。仕送りを続けたテオも結婚して責任ある立場となり、画廊の経営者とも絵をめぐる評価で衝突していた。
 ゴッホは自分が生きていることが世界に負担を強いると考え、最後の作品『烏のいる麦畑』を描く。空は嵐を告げるように濃い藍で塗られ、一本の道路が実った麦畑の中央を急流のように貫いている。言葉では表現できないヴィジョンを彼の絵は表現した。このヴィジョンこそ恩寵であり、麦畑を貫く一本の道のように生命の奔流であり、光なのだ。言葉が水平であるなら、光は垂直に高く高く進む。交差する二つの平面 の交わるところをウィルソンは、エックハルトの言葉を借りて、「存在(イズ)そのもの」と呼んでいる。つまり、この光は<存在光>という訳だ。
 ゴッホはこの絵を描いた数日後に、同じ場所に往き、拳銃で自殺をはかった。しかし、弾は急所をはずれ、彼はコートのボタンをかけて傷を隠し、歩いて自室に戻った。死んだのはその二日後だという。彼の死もまた、十字架ではないか・・・。

( Nov. 25 , 2002 )


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14、天心と日本画

 
 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの芸術は、言葉で表現できないヴィジョンを絵で表現したものだと、コリン・ウィルソンは『アウトサイダー』のなかでいった。一方、『日本のアウトサイダー』を書いた河上徹太郎は、「異端」或いは「幻を見る人」をアウトサイダーの定義とし、「幻」のところに「ヴィジョン」というルビをつけている。そしてこの「幻を見る人」の一典型として河上は岡倉天心(1862ー1913)の名前を挙げているが、同じヴィジョンを見る人が、ゴッホと天心では随分ちがうような気がする。
 河上はウィルソンを思想界のディレッタントとして退ける気概を示しただけあり、内村鑑三の「列伝」同様、天心のそれもよくできていると思う。しかし、ウィルソンの<ヴィジョン>は「光明」であるのに対し、河上のそれは「幻想」である。そして、この「ヴィジョンを見た人」がウィルソンではゴッホという名の神秘家であるのに対し、河上では天心という画家ではなく、一箇の野心的美術家史家であるところに、わたしは大きな違いを感じるのである。
 西洋の画家は古代よりその身分は長く職人であり、神の絵解きによる教化を使命とし、芸術家になったのは近世に入ってからであった。一方、日本の美術は中国の影響を受け、絵を描くことはすなわち「伝神」であるという伝統により、僧などがよく絵を描いた。雪舟はその代表的存在(『精神』二十六参照)だろうが、これなども中国の山水画を模倣するところから始まっている。
 ところで、岡倉天心の仕事は何かといえば、先ず明治初期における美術行政、それから横山大観以下日本美術院派の巨匠の画業の指導などであり、著書として専門の美術史稿のほかに英文で書かれた『東洋の理想』、『茶の本』などの名著がある。そして河上は彼を「教祖的な人物」であるといい、彼が教祖的であるのは、生きながら伝説的であることだという。つまり河上はここで、「日本のアウトサイダー」について述べるだけでなく、<カリスマ>の定義を下すことにもなる。それは天心を赴くままに伝説化するものであって、神秘化することではなく、ありのままに理想化することによって彼の正しい姿を伝えるものだというが、わたしはそのこと自体に非常な抵抗を感じる。
 まず第一に、『東洋の理想』や『茶の本』は河上が名著というほど名著ではなく、とくに『東洋の理想』における大アジア主義が戦争の侵略主義に利用され、第二次世界大戦では大東亜共栄圏の理想にすり変えられたこと。これはニイチェのいわゆる「権力への意志」が、ナチスドイツの政策遂行のために宣伝に利用された運命に似てるが、天心の立場とニイチェのそれは似て非なるものである。
 天心の大学の卒論は『国家論』だったが、前年結婚した妻との痴話げんかがもとで、その原稿は焼かれてしまった。そこで彼は稿を改め二週間で『美術論』を書き上げた。つまり彼が美術畑に進んだのはまったく痴話げんかのおかげであり、それも成績がビリから二番だったので、就職は「文部省出仕、音楽取調掛」という美術とも関係ないものだったのである。「然し省内にあること二年、人事関係でもたもたしているうちに美術畑に移り、文部少輔九鬼隆一に見い出され、ついでフェノロサを知るに及んで、天心の一生は決定したのであった。」と河上はいうが、この恩人であるはずの九鬼の夫人と天心は公然の仲となって、その別 居中の家に出入りするのである。
 ところで、天心が日本美術学校の初代校長になるのは明治二十二年である。美校ができる前に工部卿伊藤博文の開明思想下に工部美術学校があり、画家フォンタネージや彫刻家ラグーサらを教師として洋風の美術教育が発足していたが、明治十五年廃校になった。廃校になったのは天心と帝大講師フェノロサの圧力らしく、この二人は明治十七年、法隆寺秘仏の「夢殿観音」を開いたことで有名になる。文部省内でふたりは共通 の志を述べ、十九年美術取調委員としてヨーロッパへ派遣された。ふたりは一年滞在しながら、ルーヴルを一日で素通 りするなどして、「西洋のこと果たして本邦に適するや否やを考えるに、一として直ちにこれを実施すべきものなし」と報告。洋画部もなければ、日本画もほとんど狩野派だけという奇妙な美術学校が二十二年に発足したのである。
 フェノロサはモースの紹介で文学部の哲学講師として帝大でヘーゲルの講義をし、またヘーゲルの観念論の応用で美学の講義もしたが、日本美術については素人だった。それが狩野友信に紹介されて「病みつき」となり、「西洋の油絵より日本画の方がプラトンのイデアを体現している」というようなことを言いだした。かくして天心は、狩野芳崖・橋本雅邦の二大家が維新以来の時勢で仕事がないところを拾い上げ、工学部門には職人ばかり揃えて烏帽子直垂で登校させたり、およそ反時代的なことをやって世人を驚かせた。
 そもそも芳崖や雅邦が「毛唐なんかにゃ会わねえ」といって閉ざしていた門を、天心が無理矢理こじ開けて、手内職に甘んじてた老大家に出廬(しゅつろ)を促したのである。また仏罰を畏れて開帳を拒む寺僧に対して、国家の強権をもって千古の秘仏を白日の下に曝すフェノロサの科学精神と、天心の復古主義は一体どこで結びつくのか。ここで河上の「幻想を追う人」の定義がでてくる。
 天心は大時代的な大酒みで、美術学校長時代はいつもの直垂(ひたたれ)に乗馬姿で登校する途中池之端の待合いへ乗りつけ、昼前から雨戸を閉めて百目蝋燭をつけて長夜の宴を張り、米国の客人をもてなすに日米国旗を描いた蒔絵の盃を隅田川に流して曲水の宴を張ったりした。このような天心の放埒が許されるはずがなく、それまで不当に抑えられていた反対派の策動などもあり、明治三十一年美術学校長から失脚する。
 もともと天心は自分の立場を利用して当時の美術官僚を動かし、自分の理想を実現するのに当時としてもっとも可能性の高い側の力を借りて相撲をとったまでであり、それがヘーゲルでなくてもよかったように、たまたま空席の日本美術に手を染めて、西洋画壇を駆逐したまでのことである。・・・「政治力はただ彼の方で利用したのであって、それによって彼に何の妥協もなく、そこから彼の保守性を引き出すのは、今日の人間が今日の尺度で既往をはかっているに過ぎない。」と河上はいう。
 わたしから見ると、アウトサイダーとして、カリスマとして、天心の欠点であるところが河上においてはすべて長所とみなされる。例えば、今日の分類に従えば天心は「美術評論家」であるが、その美術史稿には大した発見がない。たとえ天心の思想や政治性に関する今日的解釈が保守的だとしても、敢えて弁明する必要を 河上は感じないのである。なぜなら天心は思想家でも野心家でもないからであり、美術評論家として発見がなかろうが、だいたい彼は美を発見しようとも、創造しようとも思わなかったからである。
 つまり美とは天心にとって既にあるものだ。それはロマンティシズムの定義の本質にかなう憧れであり、河上は彼を明治の大ロマンティストと呼ぶ。
 天心にとって幸いしたのは、美術学校長在籍中に大観、観山、春草らの卒業生が輩出し、失脚後もボストンの富豪ビゲローの寄付金で日本美術院を創立できたことだろう。明治三十年代といえば、日清・日露の勝利に国内は沸きかえり、海外は空前の日本ブームに酔った時期だが、天心には自分でブームを起こし自分でそれに乗ったようなところがあり、終始幸運はついて廻った。
 一方で、外国からの金を平気で使って自分の理想を実現した天心に比べ、内村鑑三はミッションの金に潔癖であり、同志と札幌に最初の教会を建てた費用は生活を切り詰めても返すという風だったという。天心の場合は、谷中の日本美術院が経営困難に陥ると高弟四人を連れて常陸五浦に院を移して隠棲するにも、ロマンティックな悲壮美より、美術界のプロデューサーとしての演出に見えてしまうのである。
 谷中から五浦へ院が移ったのは「都落ち」にちがいないが、四人の愛弟子がそろって一家を挙げてついて来て、小さな入江を抱いた広大な敷地にそれぞれが一戸を構える体のものであり、日夜一堂に会して仕事に励み、天気がよければ釣り舟を沖に出して午睡まで楽しむ生活である。もっとも移転後二か月で春草は眼を患い脱落、大観は家が失火全焼して、春草の後を追うように東京へ帰った。そのうえ主人の天心は、ボストン博物館の東洋部長として、日本とボストンを往ったり来たりである。五浦に居を構えた明治三十九年には、『東洋の理想』、『日本の覚醒』、『茶の本』の三大英文書の刊行も終わり、支那・印度・西欧の主要な旅行もすべて済ませてなに不自由ない身分だから、ボストンで半年暮らし、あとの半分は静養をかねて五浦で隠居してもいいわけだ。・・・「思うに彼のように宏大な夢を持ったロマンティストは、何がなしにもこのうえ充たされる筈のない夢に胸をさいなまれるのであろう。思えば贅沢な都々逸である。」と河上も述べている。
 さて、ざっと見るかぎり、この岡倉天心の一体どこがアウトサイダーであろうか・・・? 自分の幻想を追う人・・・「ただそれが美術という無償の世界を舞台とし、しかもそれが自ら筆をとることなく、プロデューサーの形で行なわれたために、彼の正体が「科学者」の手で捕らえ難く、代わりに言行の一部が政治的色彩 をあてがって証拠物件に取り上げられるのである。然し思えば明治という実利主義万能の時代に、彼ほど非実利的なものを現実社会の再上層部に持ち込んで成功した人はなく、その点奇跡的な存在である。」・・・幻想を追う人がアウトサイダーであっても、わたしは構わない。しかし、河上がいうように天心は「幻想」を追ったのであろうか。
 美術が無償の世界であることはよい。だが天心の行為は無償でなく、むしろ自分がプロデュースすることにより、それを有償にした。天心が非実利的なものを現実社会の最上層部に持ち込んで成功した稀有な人物であってもよい。しかしそれが実利万能の時代に成功したのは、天心が実利万能主義でそれに臨んだからだろう。
 日本美術学校はフェノロサ・天心の線で、驚くべき復古的な色彩で始められたが、「それが成功したのは単なる国粋主義ではなく、実は彼らが近代主義に目覚め、そこから功利主義に至る道を暗示し得たからに他ならない。」と、河上自身がそれを暴露している。法隆寺の夢殿観音の蓋を開け、千年の眠りから覚まして陳列ケースに入れ、科学の光を当てるような技は、実に合理的実証精神のよくするところである。事ここに至ってわれわれは、ゴッホが見たヴィジョンと、天心らが見ようとしたヴィジョンに、決定的な相違をみた。それは同時にウィルソンの『アウトサイダー』と、河上の『日本のアウトサイダー』の違いでもある。河上が「幻想」という言葉に込めたロマン主義は、ウィルソンにも「ロマン主義的アウトサイダー」として論じた一章がある。しかし、前者に思想らしい思想がなく、後者にそれが濃厚にあるのは何故か?・・・河上の明解な解答にわたしは委ねる。
 「大体明治二、三十年代の思潮を、その中の文明開化を官とし、自由民権を野とする対立に分けて、如何なる実益があるだろうか。 それに実情は、官というのは維新以来の藩閥争いであり、野というのは没落者・疎外者・純理的進歩論者の混淆であり、しかもその実力的指導者は旧幕系の操觚(そうこ)者の系統であって、思想的にこれを色分けする本質的なものは先ずない。すなわち官に功利的な文明主義があり、野に理想的な文化主義があるといった秩序立ったものではなかった。」・・・つまり思想といえるほどのものはなかった。
                               
( Nov. 26 , 2002 )


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15、『「いき」の構造』とアニマ

 
 やや時期を逸した感もあるが、話の流れにそって、ひとつ書いておきたいことが出来た。それはこの稿を再び書き始める前に、私が二十年ぶりに対談をし、『岡野教彦・私論』という原稿を書いたことに関係する。対談とは別 の私論なので、『「いき」の構造』という題も九鬼周造の論文から借りて、その本を下敷きにわたしはそれを書いたのだった。なにしろ、岡野君が波乗りを「いき」という感覚でやってきたことに、私は新鮮な驚きを感じ、読む人の苦労も忘れて、知らぬ 間に二百枚ちかい原稿を書いてしまったのである。「いき」って、何だろうというのが先ずあって、むかし読んだ本を今度は骨身を削って読み直したら、本の方で応えてくれた。それをもっとも分かりやすい比喩で言うと、「得ようとして、得た後の女のほど情(なさけ)無いものはない」・・・という永井荷風の『歓楽』の一節にたどりつく。
 「いき」というのは、ある一線を越えない媚態の妙に、たとえようのないエロティシズムがあるということらしい。それは「一元的自己が、自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能な関係を構成する二元的態度」だから、要するに<二元論>の立場である。そしてこの二元論は、どこまで行っても決して交わらない<平行線>として、九鬼周造に知覚された。このペシミズムは一体どこから来たのか?・・・  そう思いながら私は、書棚に『九鬼周造随筆集』があるのを見つけ、秘かな期待をもって読みはじめた。
 随筆をはじめから読むほど私は律儀でないので、目次を見て、『書斎漫筆』というのを最初に読んだ。そこにはプラトンの『饗宴』や聖フランシスの『小さき花』やデカルトの『方法序説』、ベルグソンの『形而上学入門』、それにエピクテトスの『遺訓』などを読んだらいいと書いてあった。それから『ある夜の夢』という随筆には、ニイチェの『ツァラトストラ』がやはり頭抜けていい本だと書いてあった。そして『根岸』では、この哲学者の少年時代が語られる。・・・
 「わたし」は四十年ぶりに思い立って根岸へいく。そして自分が七、八歳から九歳ぐらいまで住んだ門構えの家をみつける。そこに母と兄と「わたし」と三人で住んだ。女中が三人いて、ほかに書生が一人と車夫が一人いた。当時、父は麹町三年町にいた。・・・「わたしが根岸にいたころは丁度この辺に岡倉天心先生が住んでいられた。」・・・母は書見をしたり琴を弾いたりしていたが、日曜日には三年町で父と暮らしていた姉が来て、中二階で母から茶の湯を習っていた。わたしたち兄弟が時に父の家へ行くと、ママはどうしていると母の様子を聞いて果 物などを持たすのだが、父と母はまったく往来しなかったように思う。
 これだけ読むと私は、九鬼周造の<平行線>は、ここに原因があるとほぼ断定にちかい先入観を持った。父と母が別 居して往来がないということは、交わるところのない平行線ではないか。平行線はどこまでいっても交わらない。それは永遠に交わらない。周造の子供ごころに、それは埋めようのない空白をつくった。尋常小学一、二年の彼は、家へ帰るとたいがい庭で遊んだ。竹で剣を造って腰に下げて小山を駆け上がって軍人の真似をするのが好きであった。岡倉天心先生がよく母をたずねてこられた。先生がまだ上野の美術学校の校長の時代である。父が米国で公使をしている時に岡倉氏に托して母を先に日本へ帰らせた。母と岡倉氏はそれ以来の親しい間柄である。岡倉氏は中二階の奥の間で母と夕食を共にされることもあった。「わたし」は母の膝にもたれながらよく岡倉氏の話を聞いた。
 父と母の間に往来がなく、その間に岡倉天心という男性がいて、母と親しくしてる。なんとも不思議な光景であるが、これを客観的に説明する記事が河上徹太郎の『日本のアウトサイダー』に見える。・・・「門前の一隅に分骨された天心の墳墓がある。土饅頭なのは大陸の何かにあやかったのだろうか? この中に未亡人の手で星崎はつ子の写 真が一緒に葬られているそうである。この人は、天心が大学を出て文部省出仕早々引き立てて美術調査に初の 洋行まで連れていってくれた大恩人、文部少輔九鬼隆一男の夫人である。
 この夫婦の間に疎隔が生じたのは九鬼氏の方に責任がなくはないらしいが、海外から帰国する夫人と届ける役の天心と船中で二人が投合したことは、夫に不満のある細君と夫の腹心との間のよく世にあるいきさつで、社会的には全然面 目の成り立たない事件である。しかもその後のはつ子は、放蕩者の夫と正式に別 れて旧姓を名乗り、天心の谷中の宅の近くに一戸を構え、二人は公然出入りしていたという。後、天心は浜屋新らの強い忠告に屈して手を切る事にしたが、ためにはつ子は狂死するのである。・・・」(「岡倉天心」)
 九鬼周造の『岡倉覚三氏の思い出』には、『根岸』以後の天心との消息が語られ、当時の複雑な心境が垣間見られるが、天心が死に父母が死んでみれば、「誰れも悪いのではない。すべてが詩のように美しい。」と、思い出されるのである。その中で、支那人が驢馬に乗っている絵を天心が描いて周造に与え、お父さんにいって驢馬を買ってもらおうと約束する場面 がある。この驢馬はいかなる発想のもとに出てきたのだろう?・・・天心は馬に乗って美術学校に通 っていたから、子供の周造は驢馬に乗って学校に通えばよいと単純に思ったかもしれない。天心は意識的に周造の腕をつかみ、叔父さんと刎頸(ふんけい)の交わりをしようと言ったりしたが、驢馬は天心の無意識、つまり潜在意識から出たものではないか。
 先に天心を合理的功利主義者といったが、そうとばかりは言えない。たとえば「山姥」の謡が分からないというと、あれは婆さんではなく「山の精」だというような教え方をし、根岸派の文人と飲めば、「言語は末なり、人間直ちに香世界に住して、無言にて意味を通 ずるようにすべし」などという。馬に乗ることも、天心においては一種の<再生儀礼>だった可能性がある。ユングによれば、再生儀礼とは、「意識が真の『生命の泉』である無意識から遊離している状態に終止符を打ち、個体として再び、祖先から受け継がれてきた本能的性向という母胎に結びつけようとする試み」である。それは動物的本能の世界へと下ってゆく道であり、そこにある無意識が意識と統合されて、生命の泉とひとつになるあの陶酔のディオニュソス秘儀にほかならない。
 ここで驢馬というのは、ニイチェの「三態の変化」(『精神八十七参照)でいうところの駱駝であり、重荷を背負って黙々と努力するキリスト教精神の象徴である。精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、最後に獅子が小児となるのが「三態の変化」だった。この「軽蔑すべき」駱駝が、『ツァラトストラ』第四部最終篇の「驢馬祭」では、「蘇った神」として影たちに礼拝されるのである。
 この再生儀礼の諸象徴のひとつとしての驢馬は、単なる幼児的なものや太古的なものを示しているのではなく、その外観の根底に動物状態にまで遡る祖先の全生活の集積として先天的な心的性向を示し、結果 として象徴が祖先や動物の形をとったものである。意識がとる最も古い無意識の層への下降は、フロイトでは単なる幼児性への退行に過ぎないが、ユングではそこで<生命の泉>と合体して「自己」へと変容する可能性を持つ。驢馬に乗って学校へ通 えばよいと天心にいわれた周造は、いつ来るか来るかと楽しみに待っていたがとうとう驢馬やって来ず、まもなく庭の真中にブランコができた。もし驢馬が来ていたら、周造の心像は失われた本能と結びついて「神秘的合一」を達成し、永遠に平行線で終わることはなかったかも知れない。・・・そしてニイチェもまた、この驢馬の心像を単なる影として、単なる子供っぽい道化の悪ふざけとして、「子供部屋」から追い払ってしまう。
 ところで、九鬼周造の『「いき」の構造』は留学中のパリで書かれた一種の日本文化論であり、しかも文化文政期の江戸の色里遊里の一美学を、西洋のそれと拮抗するものとして対比し、かつ拮抗しえた極めて異色な論文である。周造が色里の美学を述べるにはそれ相応の耽溺があったに相違ないと思うが、それが極めてペシミスティックな平行線の二元論であった理由は、上述の体験だけで済ませられない重大な問題を残している。ニイチェはこの問題を生涯考え続け、たとえば「謎の形で表わせば、私は私の父としてはもう死んでいるが、私の母としてはまだ生きていて、老熟していく。」(『この人を見よ』)とか、「多くの短き痴愚、これを汝らは恋愛と呼ぶ。汝らの結婚は、多くの短き知遇に休止を告げる。
 それ自体は一つの永い痴愚でありながら。」(『ツァラトストラ』第一部「子と結婚」)というような警句までさまざまだ。父母の関係、男女の関係を周造は<平行線>と見たが、ニイチェは<マンダラ>すなわち円と見た。それはこころの分裂を補償するものだ。
 周造はわかいころ不幸な恋愛を体験し、のちに結ばれた女性とも離婚し、最後は祇園の芸妓と生涯を終えたという。また、ニイチェは生涯に唯一といえるサロメとの恋愛に失敗すると、その反動でひたすら男性的な権力衝動について語り、もう一方の根本衝動であるエロスについては、女性蔑視によってこれを意志的に捨てようとした。ニイチェは『ツァラトストラ』の第二部「タランテラ」の中で、「父が黙していたところのものを、子は語る。われわれはしばしば、子を父の暴露された秘密として見た。」と述べており、周造はニイチェの考察の正しいことを証明しているように見えるが、それは一方の真理を述べたに過ぎない。なぜならわれわれの半分は父から来ているが、あとの半分は母から来ているからである。ユングはこの男性の心の中の女性的な性質を人格化して<アニマ>と名づけた。
 先ほどの「死と再生の秘儀」では意識と無意識の神秘的合一によって、われわれは生命の泉に達し「自己」へと変容することができたが、今度は自己の<内なる異性>と合一することにより、われわれが忘れている生命の源泉に直に触れることが可能になるのである。                                
( Nov. 27 , 2002 )

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16、内なる異性

 
 意識と無意識の神秘的合一は、いうまでもなく忘我・恍惚の境地、すなわちエクスターズである。われわれの意識はいかにして無意識と出会い、それと一つになってエクスタシーを味わえるか?・・・ディオニュソスの秘儀のように陶酔的飲料を用いたり、麻薬を用いることはたとえ再生の秘儀であろうと一時的なもので、本質的解決にはならない。われわれが再生するには、われわれの中で、なにかが死ななくてはならない。旅人の出立の時刻は真夜中である。
 山頂に立って暗黒の海を眺め、これからそこへ降りていき、最後の最も長く苦しい航海をしなければならない。<没落>とは、「自分」が死ぬ ことによって、自分を含めた人間を救済することである(『精神』一参照)。そしてその後で、最後の大事業である最後の登高をする時が来る。暗黒の海、すなわち最も古い無意識層への下降は、われわれが祖先から受け継いだ動物的本能の世界へと下っていく道であり、孤独・悲哀・苦痛を伴い、ぞっとするような恐怖や吐き気などを伴う。
 しかしその奥には生命の泉があり、その源泉に触れると荒波にもまれるような感情の奔流から一転して、清浄と至福のやすらいだ感情が訪れる。それは意識と無意識の統合を意味し、われわれはそこで初めて「自己」へと変容し、光につつまれた存在に再生する。こうして最後の登高がはじまるのだ。
 いま戯れに述べたことは、ニイチェの「ツァラトストラの序説」をユング心理学的に解釈し要約したものだが、この無意識の領域への下降は、すでに数千年前からインドのバラモンの秘儀であり、仏陀は二十五世紀前にその解答を見つけ、無名の人々が語りついできた。それが次第に大乗的な教えになり、ナーガルジュナ(龍樹=150ー250頃)が最初にこれを論理的にまとめた。その立場は「中道」といわれ、「縁起なるもの、われわれはそれを空性と説く。それは何かにもとづいての仮の表明であり、それがまた中道にほかならない。」(『中論』四諦品第24章第十八偈)といい、「何であれ縁起したのでないものは存在しない。
 それ故、空ならざるものは何ら存在しない。」(同第十九偈)と結論した。つまり存在の本質は空である。仏陀はそれをもっと分かりやすく、われわれの存在は「玉 葱」のようだといった。つまり玉ねぎはどんどん剥いていくと、最後なにも残らない。これが「空」だ。われわれの存在が本質的に空であるとして、われわれを動かしているのは何か?・・・  それは「光」であり、「光」は、「エネルギー」である。それゆえ「存在光」という。それではわれわれ生命がもつ最大のエネルギーは何か?・・・それは<性>、セックスがもつエネルギーである。このエネルギーを如何に活用するかは、存在そのものに関わっている。
 ニイチェは、うまいことを言った。「一人の人間の性欲の程度と性質とは、その精神の最高の頂(いただき)にまで及ぶ。」(『善悪の彼岸』七十五)・・・この言葉が正しいことをニイチェのすべての著作が証明している。しかしこの性欲は、男女の結合によってのみ充たされるものではなく、精神的なもの(天上的)と肉体的ななもの(地上的)の結合によっても充たされる。この宇宙的結合は、われわれの肉体、すなわち<ミクロ・コスモス>の内における男性的なものと、女性的なものの結合にほかならない。
 ニイチェの「汚れなき認識」(『ツァラトストラかく語りき』第二部)の末尾には、自己の内なる男性と女性が交わって、「光」に変わる美しい比喩が語られている。・・・「太陽は海によって乳を吸い、その深みを自らの高みにまで引き上げようと、飲んでいる。ここに千の乳房をつけた海の欲望が昂(たか)まり来たる。海は太陽の渇きによって接吻され、乳を吸われようと願う。海は大気となり、高く謄(のぼ)ろうとし、光のじょうろと成ろうとし、さらに光にまで変わろうとする!」・・・フロイトならこれを性的願望の表われと見るだろうが、ユングなら集合的無意識とアニマによって、ニイチェの深層心理を分析するだろう。
 ここで太陽とはアポロ的男性的存在の象徴であり、精神的なものロゴス的なものを表わし、本来的に光そのものである。しかし偉大なる天体の「光」は、照らすものがなければ、その幸福はない。他方、天上の太陽に対して地上的な海は、太陽が父とすれば母であり、女性的であり本能的なもの、集合的無意識つまりは人類の象徴である。
 ナーガルジュナが言ったように、われわれの存在の本質が空であり無であるなら、どうしてひとつの肉体の中で、男女が結合するようなことがありえよう。しかし、<無>というのは事実上の<体験>である。たとえばそれは龍樹よりずっと古く、『チャーンドギア・ウパニシャッド』の中に「ウッダーラカの教説」として示されている。しかしいま龍樹の教学にそっていえば、ものを見る主体とは、誤ってものを見、そのために苦を受けている存在。
 しかしながら、仏の教えにしたがって修行し<般若波羅蜜>に開眼すべき存在であり、すなわち実践主体である。この主体の迷妄の構造や悟りの可能性を追究するものとして、瑜伽行派が出てきた。マイトレーヤ(270ー350ころ)を開祖とするこのヨーガ行者派は、アサンガ(無著)とその弟バスバンドゥ(世親)が出るに及んで理論的な唯識派と呼ばれ、ウッダーラカのように「種子」(ビージャ)を説く。諸法は実有でなく、その実相は空だが、一定の秩序ある現実の差別 相が現われるためには原因がなくてはならず、その原因を種子と呼んだ。
 種子は、「法を生ずる可能力」であり、このような可能力は純粋な精神作用すなわち「識」である。万有は「識」によって顕現するとして、<唯識>を主張した。
 これをもっと簡単にいえば、花というのは性器だ。花が受精すれば実を結ぶ。実は開いてみれば、中から種が出てくる。その種を取り出して開けてみると、中に何がある?・・・「この微(ちい)さなものこそ万有の本体(アートマン)をなすものであり、真実在(サテイア)であり、自我(アートマン)であり、そしておまえ自身である。」と、ウッダーラカは息子のシヴェーターケトゥに説く。・・・種を割ってもそこには何も見つからない。これが生命の神秘だ。生命を掘り下げていくと確かに何もない。
 しかし<無>というものには実体験がともなう。そこにはエネルギーがあるからだ。最大のエネルギーはこう言う。「この女にだけは子を産ませたい。なぜなら、おお永遠よ、わたしはお前を愛するからだ!」指輪の中の指輪・・・最高の結婚指輪は、あの「永劫回帰」のマンダラ(円環)であるとニイチェは言う(『ツァラトストラ』第三部「七つの封印」)。ここに「女」と呼ばれ、「永遠」と呼ばれているものは、「わたしは海が好きだ。海の性質を持つすべてのものが好きだ。」(同)という時に「海」に象徴されるもの。それは永遠の生であり、永遠に女性的なもの、すなわち生命の泉ともいうべき永遠の集合的無意識である。
 要するに、無が体験されるのは深い<瞑想>の中でだ。生である意識と無意識という死が合一するのは、深い神秘体験であり、「死と再生の秘儀」である。つまり死と瞑想が、無を体験する二つの可能性であるところに、<愛>が第三の可能性として、無を体験する。愛の中で「二が一」になる時、自我(意識)は誰かの中に融け去り、深いオーガズム状態となって無を体験する。無は一なる境地だ。深い愛の中では自我がない。だが、このようなオーガズムは一瞬にして冷める。その状態にずっといられる人はめったにない。なぜなら、「二が一」になって無我のオーガズムを感じると同時に、「一が二」になって新たな自我が生まれる。子が誕生したのだ。
 しかし、瞑想によって「二が一」になる時、生まれたのは真実の自分、変容した自己である。この二は、意識(生)と無意識(死)であり、自己の内なる男性と女性である。ニイチェの中には深い瞑想があった。それは無数の神秘体験である。彼は他己と一つになることにより、願っていた子を得られなかったが、自己の<内なる異性>とひとつになることにより、神を創造した。それが「ツァラトストラ」である。
 「神は死んだ!」と宣言した彼が、如何にして自己の内なる神に出会ったか?・・・それを述べたのが、『ツァラトストラかく語りき』である。それはニジンスキーのダンスが神の肉体的表現だったのに対し、神の精神的表現であり、神がニイチェを通 じて書かせた<天啓の書>ではないのか。・・・「太陽は海によって乳を吸い、その深みを己が高さまで引き上げようとして、飲んでいる。ここに千の乳房をつけた海の欲望が高まり来る。」・・・ここでは波が乳房のシンボルであり、太陽によって乳を吸われた海の欲望は、高い波となって天に届こうとする。無数の波頭を持つ海は、人類の象徴であり、「集合的無意識」と考えてもよい。
 だが、それを個体のミクロ・コスモスに置き換えれば、無意識は生命の泉であると同時に海であり、この無意識のなかに一人の女が眠っている。この女をユングは「内なる異性」、すなわち<アニマ>と呼んだのである。問題は、この内なる異性が個体のどこに眠っていて、どのようにして彼女を目覚めさせ、自己と合一させるかである。

( Nov. 29 , 2002 )


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17、フェレモン

「神は一なる力、一なる完全さであり、神のうちにあってはあらゆるものが一であり、また神は息子と聖霊とともに三を表わす」・・・この祈りには、<フィレモン・ローゼン・クロイツ>の署名がある。ローゼンクロイツは一三七八年にドイツで生まれ、修道院で勉強した後ヨーロッパ、アフリカ、オリエントを遍歴し、教会の誤りと道徳哲学全体を改め、万物が復元されるような原理を定めたという。この祈りは、一見キリスト教の<三位 一体>説に似ている。しかしキリスト教の三位一体の象徴は極めて男性的なものであり、「身体なきもの」「霊たち」「飛翔するもの」は、それぞれ水・風・火にあたる。これは女性的なものの欠如である。この三つに第四番目の「身体あるもの」すなわち母なる大地が加わって、地・水・火・風の四大となり、人間の心も安定的に調和する。キリスト教徒はこの第四番目の象徴を処女マリアに求め、あるいは悪魔としてこれを締め出した。禁欲主義者たちは、第四の象徴を「身体あるもの」として否定し、意識的に肉体を蔑視したのである。
 これに対して三を補う第四の象徴は、無意識の起源をもっている。この象徴を見る人は、最も内密な意味で自己に属するもの、自己の内なる異性は一種の創造的な背景として、または無意識の奥底から生命を恵んでくれる泉のような「自然の声」の反映としてそれを見る。ユングによれば、それは、「創造行為によって自己を顕現しようとしている神の直接的表現であり・・・つまりは人間の内部に潜んでいる神を意味している。」・・・彼にとって「自己」とは、われわれの心の発展過程を「個性化過程」としたうえで、最後に到達する理想的状態をいう。それは<明と暗>、<男と女>の「対立の結合」であり、「対立をはらんだ全体性」である。この対立が統合された「四者関係」が、ユングの夢マンダラに現われる場合は、円の中が四分割(あるいは四の倍数)された図形として、表現される。
 四者の結婚によって象徴されるユングの自我対立統合の公式は、精神修養としての<錬金術>、ひいてはギリシア語による文化の超越的な知を意味するグノーシス主義まで遡るが、ローゼンクロイツは錬金術的な結婚を通 じて、最高の知に到達する過程を描いた。彼は地中海を中心とする普遍的な改革と統合を意図したが、結局ローマのカトリックにも、プロテスタントの諸候にも用いられず、学者にも敬遠されて一四八四年に百六歳で死んだ。このクリスチャン・ローゼンクロイツの伝説と信条が、『薔薇十字団』という名のパンフレットになって刊行されたのは、彼の死後百三十年の一六一四年と翌十五年であり、この秘密結社にはニュートンやライプニッツ、さらにはデカルトまでが関係しているという噂がたったという。ローゼン・クロイツの「フィレモンR・C」は謎の人物だが、ユングはこのフィレモンという「老賢人」のイメージを、チューリッヒ湖に建てた別 荘の塔の中に描き、そこでよく瞑想したらしい。ユングのフィレモン像は、インドの聖者のような姿をして、牡牛の角とかわせみのような翼をもって「墓の聖堂」の上に立っており、横に蛇がとぐろを巻いている図だが、それはインドのグルのイメージに酷似している。
 『薔薇十字団の伝説』によれば、ローゼンクロイツは東方を旅して魔術とカバラを学び、どんな時代にも刻印されている全世界の調和に参入することを体得した「霊知の人」であり、人間は自分の尊さや価値を理解して、なぜミクロコスモスと呼ばれるのかを理解しなければならないと三人の仲間に説いた。丸屋根の聖堂の上に乗って空を飛ぶフィレモンは、グルでありながら超人への変容がイメージされており、「老賢人」フィレモンはゲーテの『ファウスト』やニイチェの『ツァラトストラはかく語りき』にも出てくる。ツァラトストラは十年間彼の洞窟にあった時、鷲と蛇をお供に従えていたが、ユングのフィレモン像では、それが「かわせみ」の翼に変わっていた。他方、ファウストは盲目的衝動に駆られてフィレモンとバウキスを殺し、超人たらんとする。
 ところで、ツァラトストラ=ニイチェの「超人」への<変容>が問題であった。超人の訪れを彼は一片の詩で語っている。・・・「ここに坐り、われ待ちに待つ、・・・何を待つとなく、/善と悪の彼岸に、ときに光をときに影を楽しみ・・・ただ戯れのみ、/ただ湖、ただ正午、ただ目的なき時。/そのとき、突如、友よ! 一は二となった・・・/ツァラトストラ わがかたえを過ぎゆきぬ 。」(『シルスマリア』)・・・これは深い瞑想による<無>の体験を語ったものだ。彼は何もしていない。ただ湖のほとりに坐り、時が消えている。正午というのは、時が過ぎゆくなかで、時計の針が一瞬だけ真上を指す時。それは真夜中と同じ。真夜中はまた正午である。永遠の中に浸っている彼に時間の感覚はない。ただ正午である。それは太陽が真上にある時。それは完全な幸福と完全な陶酔の状態を意味する神秘的な心理体験であり、死のような深い眠りの中で、何かが完全に目醒めている。善と悪、光と影という対立さえ、戯れにすぎない。この四者は完全に彼の中で統合されている。この時つぼみは何の目的もなく、ただ開く。開花は変容である。何かが死んで、何かが生まれた。一は二になった。それは人生の頂点であり、ただ正午である。いつでもそうであったのに、それまでは見えなかった自己の偉大な姿が、このとき神の啓示として初めて見えたのである。これがニイチェのツァラトスラとの邂逅にほかならない。それは瞑想だ。
 彼は瞑想によって、自分の中でツァラトストラに邂逅した。一は二となったが、ツァラトストラは自分を過ぎていってしまった。ツァラトストラが自分と一つにならなければ、真の変容はない。二はあらためて一になるべきだ。このためにシルスマリアの瞑想は、また新たな方法にまで高められねばならない。その方法論を詩に托したのが、『火のしるし』だと、わたしは思う。・・・「この炎は灰白色の腹をもち/・・・冷ややかな遠方へと己れの欲情を燃え立たせる、/つねに清らかな高みへ向かって彼女はうなじを反らせる・・・/一匹の蛇がいらだたしげに垂直に立つ、このしるしを私は自分に対してつきつける。/わたしの魂そのものだ、この炎は、/飽くことなく新たな遠方を求めて/その静かな灼熱は上へ上へと燃え上がる。」・・・この詩の解読は、ある特殊な知識がないと不可能である。
 まず灰白色の腹をもった炎とは、「火のしるし」に違いないが、それが灰白色の蛇の腹であることが異様である。つぎに冷ややかな遠方と、清らかな高みは同じ方向を向いており、それは上へ上へと垂直に燃え上がる。この燃えあがる彼女は、うなじを反らせた蛇である。しかもこの一匹の蛇は、「火のしるし」であり、「わたし」の魂そのものだ。つまり、この蛇は「わたし」の中にいて、己れの欲情を燃え立たせる。上へ上へはその距離の長さを表わし、その方向は垂直である。この蛇はいったい「わたし」のどこにいて、何故「いらだたしげ」なのだろう?・・・彼女は眠っていたのである。                 
 無意識の深層に眠っているこの蛇は、ヒンドゥーではクンダリニーとよばれる女神であり、、<ムーラダーラ>という「微細な身体」の根に属している。この微細身の宮殿は、われわれのセックスセンターつまり<会陰>に位 置し、通常は眠った状態にある。クンダリニー・ヨーガはこのチャクラに働きかけ、女神を目覚めさせて、身体の中心を上下につらぬ く管を次々に通って上昇させる。そして最終的に頭頂に位置する第七のチャクラ<サハスラーラ>を突き抜けて、ブラフマン(大宇宙)と一つになる。これはクンダリニーを使った覚醒法にほかならない。ニイチェがこの覚醒法を知ってて詩に表現したものか、あるいは知らなかったか。それはわからない。しかし、両者は酷似している。それは人間がもつ最大のエネルギーであるセクシャル・パワーをセックスに用いることなく覚醒させる方法であり、自己の内なる異性と合一することにより、宇宙と一体になる方法である。
 われわれが日常セックスに快楽を求めるのは、創造的なパワーがもっとも弱い時に現われる現象であり、男性原理と女性原理の合一を自己の外に求める場合である。この創造力が生物学的に働いた場合の結果 は言うまでもないだろう。この能力をわれわれに与えたものが、ウッダーラカの<実有>であり、ひろくいわれる神であり、自然である。ニイチェのフィレモンは、ミクロコスモス(アートマン)の中で内なる異性と合一し、ブラフマ・ランドラ(ブラフマンの穴)を通 じて、大宇宙(ブラフマン)の神と交信したのである。「火のしるし」の女神が、清らかな高みへ向かってうなじを反らし、とぐろを解いて垂直に立って、スシュムナーの気道を上へ上へと上昇する。『火のしるし』はわれわれのミクロコスモス内で可能な合一だが、それがブラフマンと合一した時、ニイチェのフィレモンは何と言ったか? 『ツァラトストラはかく語りき』の一言一句が物語っている。それは考えられた思想ではない。体験された<無>である。
( Nov. 30 , 2002 ) 


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18、フェロモン

 人間の無意識内に存在する様々なイメージの元型をユングは仮定して、「集団的無意識」といった。このうち男性の心の中に存在する女性像の元型をアニマと名づけ、女性の心の中に存在する男性像をアニムスと名づけたのである。われわれは自分の心の中に存在するアニマやアニムスを異性に投影して、その人に情熱的な愛や抗し難い魅力を感じてしまう。ここに出現する複雑な男女関係を心理学の立場でとらえたユング派は、アニマやアニムスの元型をよく理解し把握することによって、そこに生ずる現実的な混乱を避けたり、困難を克服したりする臨床経験に役立てたのである。ユング派の学者たちは、この元型を神話や昔話に求め、それを研究することが重要だと考えた。
 カール・グスタフ・ユング(1875ー1961)は、ドイツとの国境に近いスイスの寒村に厳格な牧師の子として生まれたが、小学生のころからバーゼルで教育を受け、有名なバーゼル大学の医学部を卒業した。バーゼルが有名なのは、母権的古代史に詳しいバッハオーフェンや中世史家のブルクハルト、それからニイチェなどが活躍した古い大学都市としてで ある。ユングは、父親の説く伝統的キリスト教思想とアンチ・キリストであるニイチェの高度に知的な近代思想のはざまで、分裂した自我に悩んでいた。フロイトの『夢判断』を読んでその門をたたいたが、汎性欲説を嫌って分派する。この頃からユングは、キリスト教の異端として絶滅させられたグノーシス主義の研究に没頭し、古代神秘思想に惹かれてゆく。彼が超人への変容として心に描いたフィレモン(老賢人)のイメージは、ギリシア神話におけるオウディウスの『変身譜』にまで遡る。
 ここでフィレモンとバキウスという老夫婦の話をしようというのではない。フィレモンと言葉が似ているフェロモン(pheromone)から連想して、若い男女の関係、とくに女性のこころの中に存在する<アニムス>について考えてみたいのである。ところでフェロモンを辞典でひくと、「動物の体内から分泌・放出されて、同種の他の個体の行動や生理状態に影響を与える物質の総称。多くの昆虫の性ホルモン、アリやミツバチの警報ホルモンなど。」とある。われわれ人間の性衝動を考えるのになぜ、生物の進化において、人間の対極に位 置する昆虫類の膜翅目(まくしもく)であるアリやミツバチが出てこなければならないのか。それはおそらく意識の両形態の先端が、前者では人間の知性であるのに対し、後者では膜翅類の本能になっており、それがともに社会を形成するからではないか。人間が社会を形成する基本形は、男女の結婚を通 して表われる。
 この結婚とは、いったい何だろう・・・? ニイチェは『ツァラトストラ』のなかで、「結婚、・・・われは之を名づけて、創造する者よりより以上なる一人を創造せんとする、二人の意志、と呼ぶ。」(「子と結婚」)と肯定的に定義している。その一方ですぐ後に、「多くの短き痴愚・・・、之をなんじらは恋愛と呼ぶ。なんじらの結婚は、多くの短き痴愚に休止を告げる。それ自体は一つの永い痴愚でありながら。」と、ニヒリズムに堕す。ここでは結婚も、恋愛も、ことごとく精神的であり、知性的だ。<フェロモン>という言葉は、知性的な人間の男女関係を本能レベルに引き下げて、肉体レベルで官能を楽しもうとする快楽主義者が持ち出した便利な用語ではないのか。この知的なセックスは倒錯する。
 われわれ人間のセックスが倒錯する理由を明確にした最初の文献は、おそらく『聖書』だろう。それは『旧約聖書』のはじめの数章に描かれている。蛇がイヴを誘惑した有名な事件を再現してみよう。・・・いまだ「時間」のはじまらぬ とき、時間を超絶する存在はすでにあった。その「存在」が神である。「光あれ」が、神の第一声だった。これによって昼と夜が分かたれた(第一期)。・・・創造の第六期に、「海の魚、天の鳥、地の獣、陸の木の実、萌える草、すべてを司るもの・・・すなわち神に似たる者。知恵と意志をあわせ持ち、神に似る者」と、神は言った。神は一片の土を取り、それが練られて形をなしたとき、呼吸を吹き込んだ。こうして最初の人が生まれた。「彼に適する助け手を。伴侶を」と、神は言った。神は最初の人が深い眠りに落ちている間に、彼の肋骨を一本取って、その人からもうひとりの人が創造された。
 「男(イッシュ)より生まれた者であるゆえに女(イッシャ)と呼ばれよう」と、神は言った。ふたりは裸だったが、無垢の状態だったから、何の恥じらいもなかった。イッシュから出たイッシャは、同じ語幹のふたつの言語が合わさるように、イッシュと一体になった。男女は結合するように、創造されたからである。最初の人が置かれた場所はエデンの園と呼ばれ、不滅の生命の木と、善悪の知識の木が植えられていた。神は、自分の小さな肖像ともいうべき、ふたりに向かって言った。「地に生えて種子を持つすべての草と、種子を持つすべての果 樹は、おまえたちのもの。食せよ。地の上に動くすべての獣、また天を飛ぶすべての鳥、地に生きるすべての這うものは、青草を糧(かて)とせよ」・・・  最初の人とその伴侶は、すなわちアダムとイヴは、園にあって園を守り、果 樹の実を食し、川で毎日ゆあみし、無垢の幸せがそこにあった。しかし園の中には、蛇の形を取って悪の力が入っていた。悪は否定の精神そのものであった。「園の中のすべての果 実を食してもよいのか?」と、蛇は女に近づいて言った。「すべて。園の中央に生える善悪の知識の木の実をのぞいてすべて。」・・・女は神に命じられた通 り答えた。それは<禁断の木の実>である。神はアダムとイヴにこう言った。「善悪の知識の木の実を食して、神なるわたしの主位 権を犯すとき、罪が生じ死が人を訪れる・・・」  「嘘」と言って、蛇は女をそそのかした。「神は知っている。その果 実を食した者が神のようになることを。だから禁じた。」と、蛇はいう。神のようになるなら素晴らしいと思い女はそれを取って食し、男にも分けた。食べ終わったとき、創造された者イッシュとイッシャは、創造した者神の主位 権を犯し、秩序がここで転覆した。これが<原罪>である。無垢と知恵とに支配されていた情慾が、無垢と知恵とに代って支配の力を持ったので、ふたりは裸身に気づき、近くの枝から葉を摘んで腰をおおった。こうしてアダムとイヴは楽園から追われた。この禁断の木の実とは、いったい何だったのだろう・・・?         
 教会によれば、神は、悪魔に生殖行為をつかさどる力を与えたという。蛇がイヴを誘惑した事件(堕落の最初の罪)が、性的なものだったからである。悪魔は、直接手を下すより、魔女を通 して悪事を行なうことを好んだ。魔女は、悪霊を人体に変えて間にはさみこみ、男女の合体を妨げる。こうした魔法をかけられるのが、たいてい男性であるのは、魔女の大部分が、男性に肉欲を抱く女性だからだといわれている。その一方で、飲めば否応なく目の前にいる人と恋に落ちてしまう魔法の薬が<媚薬>であり、その歴史をたどれば、媚薬の材料として欠かせないもっとも有名なマンドレークの根は、別 名<愛のリンゴ>という。最も強力なマンドレークは絞首台の下に生えるもので、それは絞首刑になった人が無意識に放出する精液から生まれると考えられ、魔女だけがこれを収穫できる。
 古代ギリシアやローマでは、魔女はその薬草の知識や魔術的薬、そして超自然的能力で知られていた。ローマの詩人アプレイウス(123ー170)は、その小説『黄金のロバ』のなかで、魔女の超能力について具体的に述べている。しかしこの小説が有名なのは、その中に含まれている『アモールとプシケー』という神話によってではないだろうか・・・。ユングの高弟であるエリック・ノイマン(1905ー1960)によって、『アモールとプシケー』の神話は、従来のキリスト教的な倫理的教義主義ではなく、女性の自己実現という深層心理学的なテーマに掘り下げられ、アニムスの存在から解明されている。
 ノイマンの説によれば、われわれの意識と無意識は最初は分離されず、混沌としたカオスの状態にある。この状態を彼は、古代の象徴である<ウロボロス>によって表わす。それは蛇が自分の尻尾を呑み込み円状になったもので、頭と尻、はらむものとはらますものが分離されず、一体となってひとつの全体性をなしていることを表わしている。このようなカオスの中から、自我存在が萌芽するとき、世界は「太母」(グレートマザー)の姿となって顕現する。太母の像は世界中の神話に重要な地位 を占め、『アモールとプシケー』の中では女神アプロディテーとして登場するが、その存在はやっと目覚めた自我にとって、世界は自我を育ててくれるやさしい母と映るか、もとのカオスへ逆行させる恐ろしい母として映るか、両面 性を備えている(『波乗りと精神』八十三参照)。
 さて、この神話の主人公であるプシケーは、ある国王と王妃の姫であるが、年長の姫たちが人の世の褒め言葉でしかるべく讃えることができたのに、この末のお姫さまだけは貧弱な人間界の言葉などでは到底言い表わすことも、褒めそやすこともできない美しさだった。それはあの紺青の海の底に生まれ、泡立つ波の雫に養われて育ったヴェヌス(女神)さまが、いまこそ諸方の国々へ貴い慈しみをお垂れになる心ばせから、衆生の間の立ち交わっておいでになるそうだとか、様々な噂となって諸国を駆け巡り、ついに本当の女神ヴェヌスの耳にまで入った。プシケーが自分の化身として礼拝されていることに怒った女神は、自分の息子(クピードー=愛の神)を呼び寄せ、「頼むからお母さんの仇を取っておくれ、そしてあの小娘が容色を鼻にかけてるのを、うんとどやしつけてやっておくれな。」と言いつけ、長くしっかりと接吻して、薔薇色の御足で波の頂きを踏みながら進んでいくと、みるみる深い海原が頂上まで澄みわたって鎮まり返った。
 この敵対関係は、人々がプシケーの美しさを見て、アプロディテー礼拝とその神殿とを拒否したときに始まった。美そのものを純粋に観照することは、アプロディテーによって代表される原理ではなく、アプロディテーも美しく美そのものを示していたが、彼女の美しさは目的への手段であり、その目的とは欲望であり、性的な陶酔だったのである。アプロディテーは太母すなわち五つのあらゆる要素の根源であり、すべてのものの生みの親として永久にかわることはないが、バビロニアのイシュタルやギリシアのデーメーテールと同じように、アプロディテーが怒りのなかに自分自身をかくすとき、世界は不毛の地となる。
( Dec. 7 , 2002 )


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19、エロース(愛)とプシケー(精神)

 『黄金のロバ』に伝えられる「愛とこころ(アモールとプシケー)」の物語は、もともとアプレイウスが考え出したものではなく、はるか昔からあったものである。嫉妬深い女であるアプロディテーは、虚栄心を傷つけられて復讐の念にかられ、息子のエロースをつかわし愛をもってプシケーを滅ぼそうとする。彼女にとって重要なことは、美を競うことだった。このクピードーであるエロースは、クレタの神の後継者であるとされ、その文明のはじまりは有史以前にさかのぼり、地中海文明の前父性的すなわち母性的な社会の中に、われわれを連れ戻すのである。そして母性世界という観点からみらるとき、すべての結婚は敵愾心に満ちた男性の魅力的で土に根ざした一面 が処女の輝きを強奪することであり、女性は山頂のような孤独のただ中に身を置いて、そこで襲いかかる男を待っている。
 女性の深い経験の中で怪物や魔法使い、あるいは悪霊のいけにえに捧げられた花嫁が、「死の結婚」においてベールをかぶることは、神秘のベールをかぶることを意味し、強姦されるということは、女であることを確認するできごとである。そして男性にとって、結婚とは何よりもまず誘拐であり、奪いとることすなわち強奪であった。この性的な出会いのもつ原始的な現象は、男性にとって攻撃・勝利・強奪・欲求の満足だが、女性にとっては運命であり、変容であり、もっとも深い人生の神秘である。つまり花を摘まれるという行為は、処女である自分に終止符を打ち、現実の生活に立ち向かってゆくことを示す。このように一人の人間の中で処女性、女性性、そして母性を経験することは、その変容において彼女自身の実存の深さを諒解することであり、処女である花から実をもたらす母への転換は、女性のみに与えられたものである。
 アポロンの神託によって、プシケーはひとり淋しく岩の上に捨てられる身となった。「死の結婚」の儀式によって、プシケーはエロースの楽園にいる。そこは神様の御殿だけに、人間界のお姫様が見たこともない世界中の宝物で内も外も飾られた壮麗な宮殿であり、アラビアンナイトのように神秘に満ちたその光景は、ロココ的な輝きがただよっていた。そこに見知らぬ 夫があらわれプシケーを花嫁にすると、毎晩まだ夜が明けやらぬうちに急いで出かけて行く。夜毎のはげしい喜びも暗闇のなかの恍惚状態であり、彼女にとって、相手は「見ず知らず」の状態なのである。恋人はただ感じられ聞こえるだけなのに、「あなたのやさしい愛を失うくらいなら、百ぺんで死んだ方がましです。あなたがどんなお方であろうとも。」と、プシケーは言う。しかしエデンの園にもいたように、どの楽園にも蛇は住んでいる。
 プシケーの幸福を破壊しようとたくらむ蛇は、嫉妬深い彼女の姉たちであった。エロースの警告にもかかわらず、プシケーは姉たちに会い、タブーを破るようにそそのかされる。「夫をみてはならない」、「何も聞いてはいけない」、「密室に入ってはならなない」という禁止令をプシケーが破ることは、身の破滅を意味していた。・・・ところでここに登場する姉妹の特徴と、この物語りにおける意味は何だろうか? 処女が到達する死の結婚の元型的な有効性を有史以前の母系社会に求めるエリック・ノイマンは、ここで「父性社会における女性の屈従」の典型的な例として、この姉妹を挙げる。すなわち彼女らの結婚は父性の奴隷的屈従のシンボルであり、幸福な結婚をおくっているように見えても、徹頭徹尾、夫を憎んでいる。彼女らの夫は、「かぼちゃよりもはげており、どんな子供よりも愚かである」とみなされ、あたかも父に対する娘のような役割を演じ、何ひとつ楽しみのない人生をおくっている。つまりプシケーの二人の姉妹とも、男を激しく憎んでおり、母性社会の典型的な地位 を代表しているのである。
 姉妹たちは「汚い毒液をはく大蛇に抱かれている」とプシケーを中傷し、刃で夫を殺し彼の頭を切り取るように忠告した。それはもはや嫉妬などではなく、敵対的で獣的な男性の犠牲としての女性の自己防衛であり、男性を憎む母性のシンボルとしての男性の殺害と去勢である。つまり姉妹のもつ反男性的で残忍な扇動は、プシケーの静かな献身と自己消滅の態度に対抗する女性の真の抵抗、より高い女性としての意識の始まりを意味していると同時に、プシケー自身の抑圧された無意識的な母性傾向の投影であり、心理学的には姉妹の存在がプシケーの「影」の側面 になっている。さて、ナイフとランプを手に取り、プシケーは彼女の愛人に近づく。今こそプシケーは、彼女の意識的な愛の関係についての戦いに参与し、光の中にはじめてエロースの姿をみとめる。しかし彼女の眼に映ったものは、あらゆる獣のうちでも一番やさしく、一番可愛らしい神様が寝ている姿だった。
 プシケーは、エロースの矢で自分を突き、血を流す。彼女の愛の結婚は、死の結婚の儀式のうちの死にゆく者、強姦される者、奪われる者としてはじまったが、今やプシケーが経験しているのは第二の処女凌辱、まさに自発的な処女凌辱であり、もはや一人の犠牲者ではなく、積極的に愛しうる女性となったのである。エロースはもう外からおそってくる男性ではなく、彼女の内に統合しえた存在として、愛することができた。まさにこの瞬間は、一度は宿命として直面 しなけなければならない悲劇的な瞬間であり、彼女の女性としての本性の完成に向かう傾きの何かが、彼女をして暗闇から脱却することを余儀なくさせたのである。
 一方、自分を神とみなしている男性の立場においては、彼女を暗闇で所有することこそ万事に都合よく、そこでのプシケーは単に彼の夜の伴侶に過ぎず、世間から引っ込んで彼のためにのみ生活し、彼の昼間の存在である現実と神性をともににする恩恵にはまったく浴していなかった。この子供らしい少女、単純でやさしい心の持ち主が、ナイフとランプを持って眠っている夫に近づき、彼を殺そうとしたのである。プシケーは暗闇から出て、愛に生きる女性としての宿命に入っていく。なぜなら彼女の本質は精神的であり、それゆえプシケー(たましい)と呼ばれているからである。プシケーの行為は、ウロボロス的な無意識な楽園からエロースと自分自身を解き放ち、意識の必然的な発展に相応するものであっても、それは殺害的な行為ではなく、むしろ愛をかりたてるような行為そのものだった。それは男性が外的な世界を征服しようとして英雄的な殺害の行為から出発し、そして彼が勝ちえたアニマ像を伴う聖なる結婚が、その勝利の一部を物語っているのとは全くちがう。すなわち、愛と完全な意識とを伴う次元においては、苦しみと闘争を通 じて、すでに彼女によってなされた分離をはるかに超越していこうとする試み以上の何物でもない。
 「死の結婚」の次に、プシケーのなした「行為」は、やがて<個性化>のもたらすあらゆる苦しみを経てゆく。具体的にそれは、エロースの母であるアプロディテーがプシケーに課す「四つの課題」として、物語の中で提示される。アプロディテーは、今まで近親相姦的な関係にとり押さえていた自分の息子を、義理の娘が奪いはしないかと恐れ、そういう関係をことごとく変えてしまおうといら立つ。おとぎ話や神話における「課題」は、数からいうと三つが普通 だが、プシケーの場合にはもうひとつ加わって四つあるのが特徴だ。最初の三つの課題は、植物界や動物界の「援助者」によって、すなわちプシケーの無意識の内的な力によって解決されている。それはすべて男性原理との闘いだった。四というのは、<全体性>の象徴である。ここでプシケーは、彼女の中心的な女性原理との直接的な闘争、そしてアプロディテーとの闘いに入ってゆく。そして最後の最後に失敗して、死の眠りに就く。愛し、知り、そして試しを受けた人間として、死に直面 するのである。
 この四番目の課題が一番むつかしい。なぜなら、女神アプロディテーを美しくする「美の軟膏」を頒けてもらいに、冥王(オルクス)のお妃プロセルピナのいる冥途まで、プシケーは自分の足でお使いに行かなければならないからである。そこで彼女は今度こそ自分の運命もこれまでと思い、一番高い塔の上から身を投げようとした。そうすればきっと冥界へまっすぐに降りていけるだろう。・・・ところがそのとき急に塔が物を言いだし、三途の川を渡って冥界へ行き、ふたたび戻ってくる方法を教えてくれる。プシケーはいわれた通 りにプロセルピナの御殿へ行き、そこで美の軟膏を小箱に頒けてもらい、いそいそと冥途から帰ってきた。しかし、その小箱を絶対に開けてはいけないと言われながら、プシケーは美しくなってまたエロースに気に入られたいと思う一心で、小箱をこじ開けてしまう。ところがその中には美しさどろか、どんな物も入っておらず、正真正銘の地獄の眠りだけが蓋の中から立ち昇り、プシケーは死んだような眠りに落ちてしまう。
 プシケーは九分九厘成功を収めながら、最後の最後に失敗し、死の眠りに就く。プシケーの「失敗」の原因は何だろう?・・・それは単なる虚栄心や、抵抗しがたいあわれな女性の好奇心からではない。彼女の意識の発達した状態と堅固な自我は、最後の「援助者」として現われる「塔」によって象徴されている。塔は、多元的な層をもつ一つのシンボルであり、それは彼女の意識を表わしている。それは女性性のシンボルである。プシケーの中の処女性は父性と母性の攻撃によって鍛えられ、発達した意識と堅固な自我をもつ一人の女性として成長しながら、それでも失敗した。彼女は失敗しなければならない。なぜなら、彼女は女性の心(プシケー)をもっているからである。彼女はまだそれに気がついていないけれども、まさにこの失敗こそが、結果 的に彼女に勝利をもたらすのである。
( Dec. 9 , 2002 )


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20、波乗りとプシケー(女性)

 プシケーの使命遂行は、英雄的な旅である。英雄たるものが果 たさなければならない仕事のひとつひとつに死の影がつきまとう。だがその死をなしとげるということは、死との闘いや地下界にあるものとのたたかいのなかで、最も困難なものである。プシケーにとって四つの課題は、そのどれをとっても、はじめるにあたって絶望をともない、自殺だけが唯一の解決であるかにみえた。しかし、彼女は「英雄」であろうか?・・・この「英雄」という言葉ほど、女性性にとってふさわしくない概念はないだろう。女性が竜と戦っている魅惑的な姿を、われわれは想像することができない。このゆえに、われわれは波乗りする女性を美しいと感じないのではないだろうか・・・?
 竜をやっつける女性のやり方というのは竜を受け入れることであるはずだ。プシケーは非常に強く、攻撃的な意識を発達させたので、彼女の愛する者エロースを失ったが、最後に意識の警告を無視して死の危険の中に飛び込んだのは、偉大なあやまちだった。はじめにプシケーは、彼女の精神的な発達のためにエロースの楽園を犠牲にしたが、最後に彼女は不死の美のために、彼女の精神的発達を犠牲にした。知識よりも美しさを選ぶことによって、プシケーはむしろ、自分の本性の中にある女性性と結合する。プシケーは失敗し、愛のためにすべての原理を放棄し、すべての警告を投げ捨て、すべての理性を捨て去ることによってアプロディテーの好意を得ることができ、エロースを介入させて、彼を少年からひとりの男性へとつくりかえ、愛の逃亡者からひとの救済者の変容させた。
 彼女にとって男性的側面が具わっていることは、必要欠くべからざることであり、それゆえエロースと別 れざるを得ないはめに陥ったが、まさにその男性的な側面を犠牲にすることによって、新たな事態に突入した。その事態はとりもなおさず、彼女が「死の眠り」におちて救われがたい者となり、しかも救われなくてはならない状態になることによって、母性(ヴェヌス)のとらわれ人であるエロースを救い出すという事態である。そうしたことが救済者であり英雄であるエロースとなって、再びプシケーと出会う可能性をエロースに与えたのである。物語りのはじめで彼女に運命づけられていた「死の結婚」は、おどろくべき転換によって遂行されないままエロースの暗い楽園にとってかわった。それが今やより高い次元において、彼女はエロースと死の結婚を遂行するのだ。
 プシケーはエロースのためにこそ死ぬのである。彼女は自らを与え、彼のために獲得してきた一切のものをことごとく捧げ尽くす身がまえで、美の軟膏の小箱をあけることによって死んだような眠りの状態のまま、神々しい輝きを放つ。それは「眠れる森の美女の物語」や「白雪姫」の物語のように、悪い母・継母・年老いた魔女などによって惹き起こされる眠りだが、もはや母性が望んでいるような男性を愛することのない「ガラス棺」の美ではなく、単なる乙女の不妊のこわばった美しさではない。男性との死の結婚において、自らを捧げつくした乙女のもつ本来的なありのままと美しさは、エロースのために死に、全存在を捧げ尽くすことが何であるかをわきまえたプシケーの精神的な美しさとなって、ひときわ光を放つのである。愛のキューピッドにすぎなかった翼をもつ神エロースは、プシケーの愛によってひとりの傷を負った少年という状態から脱却して、一人前の大人として、救済者となる。
 アプレイウスの『アモールとプシケー』の物語りは、「倖いなる終末」つまりハッピーエンドの物語りである。プシケーのところへ飛んで駆けつけたエロースは、ていねいに睡眠を拭き取って小箱のなかに納め返すと、背中の翼の先端でプシケーを呼び醒ます。エロースは人間プシケーを通 じてしか、彼におこった奇跡をそれまで、いかなる女神においても経験できなかったし、知ることもできなかった。それは天上と地下の世界の中間に位 する人間においてのみ存在し、すなわち愛によって再生する女性の神秘であった。プラトンの『饗宴』においては、ひとつのものが分裂し、別 れたものを再び結びつけようとするあこがれが、愛の神話的な起源として描写 されているが、プシケーの行為によって元型的な世界の神話時代は終わりをつげ、神々の統治に依存していた男女関係は、ヒューマンな愛の時代に入る。
 英雄はもともと無意識に棲む竜が守り所有している宝物を、つねに自分自身の個性に統合してゆくものである。意識的には太母に従い、自我の力が強化されたプシケーの道は、男性の英雄がたどる典型的な生涯にほかならない。彼女の無意識の中での男性的な力は、<アニムス>と呼ばれているものをはるかに凌駕してその深みへ広がっており、「純粋な男性」に勝るウロボリックな姿をもち、超人的な姿にも相当する。プシケーの生涯を女性のイニシエーションのプロセスと解釈するなら、彼女を行動に駆り立てそそのかしている存在はアプロディテーであり、「人をいじめる迫害者としての悪者」の元型は、ますます個性的な強さを発揮させる元型へと姿を移しかえてゆく。男性の英雄の生涯の中でもしばしば拒否的な両親の元型は、悪い父あるいは悪い母として人格化されているばかりでなく、聖なる迫害者の元型的な形をとって表われている。つまり彼女にとって、アプロディテー・ペルセポネーという否定的な統一体が存在するだけでなく、導きを与える英知の自己としての偉大な女神の統一体、未だ名づけられていない高次の統一体も存在するのである。
 自己は心の全体性を表わす。それは自我と意識の形成に向かって収斂 していくが、さらに個性化にも向かう。超越されつつある段階のもつ無意識的な力が、自我と個性化に抵抗するとき、われわれは太母である無意識との葛藤の中に身をおく。すなわち女性は男性に立ち向かい、しかも男性を超越するような方向へと発達してゆかなければならない。しかし、太母との葛藤のなかで行なわれるこの発達は、男性と男性の心理学によって、女性の本性を破壊するような方向に進む。したがって自己の進歩的な性格と太母の退行的な性格を区別 するむつかしさは、女性心理学の中心的な問題になる。母性は、男性との出会いを困難にする母性的敵愾心すなわち愛に向かう母性的な敵愾心は克服されねばならない。
 一方、女性の発達を促す父性は、どうしても必要な過渡期を表わす。しかし「父性の中に閉じ込めること」すなわち「ハーレムの心理学」は、女性のもつ母性的な独立を阻止する方向に向かう退行現象である。こうした理由のために、父性的なもののなかに女性的なものを閉じ込めておこうとする母性的な力に逆らおうとする積極的な要素が、同時に父性的ウロボロスであるエロースとしての竜に従属するような形で含まれている。したがって母性への退行が、女性にとってはしばしば前進的な意味をもつ。生産と破壊の両側面 をもった、えたいの知れない男性的な精神的原理(ウロボロス)はひとつの心的な力として、女性のアニムスの世界のはじめに機能し、それをはるかに越えて広がり、その役割を演じてゆく。すなわちそれは彼女の中の無意識の力であり、それを意識的な活動に転換することによって、プシケーは自分自身の男性的な力を十二分に発揮できたのである。
 プシケーはその旅路の果てに、勝利の女神のような偉容を帯びてくるが、彼女の性的な魅力を犠牲にしてまで、あのような輝かしい勝利に満ちた男性的な発達を遂げるに至ったことは、とりもなおさず一人の女性プシケーにとっては思いもよらぬ 災害だったに相違ない。自らの男性的な側面に気づき、はじめてそれを実現しようとしたのち、さらにその男性的な要素を発達させることによって、太母のもつ完全性に対抗せざるをえない立場に立たされ、このような対決の結果 プシケーが得たと思われる失敗が、実は勝利をはらんだ敗北そのものだったのである!・・・プシケーがエロースの妻として、オリュンポスに認められたとき、女性とあらゆる人類の画期的な発達が神話の中にあらわれるようになる。女性の観点から見れば、それは魂の個人的な愛の能力が神聖なものであり、愛による変容は神聖さを帯びるに至る秘儀であることを示している。
 波乗りする女性は、彼女の個性化の過程で無意識に、自分自身の男性的な力に依存しているのではないだろうか。われわれ男性の眼から見ると、それは女性が波乗りしているのではなく、彼女の中の男性がしているにすぎない。したがってそれは全く性的対象にならないのである。神話というものは、元型的な宇宙での完全な行為を具体化したものである。それは元型的であるゆえに、個人的な感覚でとらえるべきものではない。その意味は、普遍的な人間感覚でとらえるべきものである。すなわちその行為は、ある特定の男性、あるいはある特定の女性に起こってくるものではなく、宇宙的な「模範的行為」なのである。
( Dec. 9 , 2002 )


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