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14、天心と日本画
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの芸術は、言葉で表現できないヴィジョンを絵で表現したものだと、コリン・ウィルソンは『アウトサイダー』のなかでいった。一方、『日本のアウトサイダー』を書いた河上徹太郎は、「異端」或いは「幻を見る人」をアウトサイダーの定義とし、「幻」のところに「ヴィジョン」というルビをつけている。そしてこの「幻を見る人」の一典型として河上は岡倉天心(1862ー1913)の名前を挙げているが、同じヴィジョンを見る人が、ゴッホと天心では随分ちがうような気がする。
河上はウィルソンを思想界のディレッタントとして退ける気概を示しただけあり、内村鑑三の「列伝」同様、天心のそれもよくできていると思う。しかし、ウィルソンの<ヴィジョン>は「光明」であるのに対し、河上のそれは「幻想」である。そして、この「ヴィジョンを見た人」がウィルソンではゴッホという名の神秘家であるのに対し、河上では天心という画家ではなく、一箇の野心的美術家史家であるところに、わたしは大きな違いを感じるのである。
西洋の画家は古代よりその身分は長く職人であり、神の絵解きによる教化を使命とし、芸術家になったのは近世に入ってからであった。一方、日本の美術は中国の影響を受け、絵を描くことはすなわち「伝神」であるという伝統により、僧などがよく絵を描いた。雪舟はその代表的存在(『精神』二十六参照)だろうが、これなども中国の山水画を模倣するところから始まっている。
ところで、岡倉天心の仕事は何かといえば、先ず明治初期における美術行政、それから横山大観以下日本美術院派の巨匠の画業の指導などであり、著書として専門の美術史稿のほかに英文で書かれた『東洋の理想』、『茶の本』などの名著がある。そして河上は彼を「教祖的な人物」であるといい、彼が教祖的であるのは、生きながら伝説的であることだという。つまり河上はここで、「日本のアウトサイダー」について述べるだけでなく、<カリスマ>の定義を下すことにもなる。それは天心を赴くままに伝説化するものであって、神秘化することではなく、ありのままに理想化することによって彼の正しい姿を伝えるものだというが、わたしはそのこと自体に非常な抵抗を感じる。
まず第一に、『東洋の理想』や『茶の本』は河上が名著というほど名著ではなく、とくに『東洋の理想』における大アジア主義が戦争の侵略主義に利用され、第二次世界大戦では大東亜共栄圏の理想にすり変えられたこと。これはニイチェのいわゆる「権力への意志」が、ナチスドイツの政策遂行のために宣伝に利用された運命に似てるが、天心の立場とニイチェのそれは似て非なるものである。
天心の大学の卒論は『国家論』だったが、前年結婚した妻との痴話げんかがもとで、その原稿は焼かれてしまった。そこで彼は稿を改め二週間で『美術論』を書き上げた。つまり彼が美術畑に進んだのはまったく痴話げんかのおかげであり、それも成績がビリから二番だったので、就職は「文部省出仕、音楽取調掛」という美術とも関係ないものだったのである。「然し省内にあること二年、人事関係でもたもたしているうちに美術畑に移り、文部少輔九鬼隆一に見い出され、ついでフェノロサを知るに及んで、天心の一生は決定したのであった。」と河上はいうが、この恩人であるはずの九鬼の夫人と天心は公然の仲となって、その別
居中の家に出入りするのである。
ところで、天心が日本美術学校の初代校長になるのは明治二十二年である。美校ができる前に工部卿伊藤博文の開明思想下に工部美術学校があり、画家フォンタネージや彫刻家ラグーサらを教師として洋風の美術教育が発足していたが、明治十五年廃校になった。廃校になったのは天心と帝大講師フェノロサの圧力らしく、この二人は明治十七年、法隆寺秘仏の「夢殿観音」を開いたことで有名になる。文部省内でふたりは共通
の志を述べ、十九年美術取調委員としてヨーロッパへ派遣された。ふたりは一年滞在しながら、ルーヴルを一日で素通 りするなどして、「西洋のこと果たして本邦に適するや否やを考えるに、一として直ちにこれを実施すべきものなし」と報告。洋画部もなければ、日本画もほとんど狩野派だけという奇妙な美術学校が二十二年に発足したのである。
フェノロサはモースの紹介で文学部の哲学講師として帝大でヘーゲルの講義をし、またヘーゲルの観念論の応用で美学の講義もしたが、日本美術については素人だった。それが狩野友信に紹介されて「病みつき」となり、「西洋の油絵より日本画の方がプラトンのイデアを体現している」というようなことを言いだした。かくして天心は、狩野芳崖・橋本雅邦の二大家が維新以来の時勢で仕事がないところを拾い上げ、工学部門には職人ばかり揃えて烏帽子直垂で登校させたり、およそ反時代的なことをやって世人を驚かせた。
そもそも芳崖や雅邦が「毛唐なんかにゃ会わねえ」といって閉ざしていた門を、天心が無理矢理こじ開けて、手内職に甘んじてた老大家に出廬(しゅつろ)を促したのである。また仏罰を畏れて開帳を拒む寺僧に対して、国家の強権をもって千古の秘仏を白日の下に曝すフェノロサの科学精神と、天心の復古主義は一体どこで結びつくのか。ここで河上の「幻想を追う人」の定義がでてくる。
天心は大時代的な大酒みで、美術学校長時代はいつもの直垂(ひたたれ)に乗馬姿で登校する途中池之端の待合いへ乗りつけ、昼前から雨戸を閉めて百目蝋燭をつけて長夜の宴を張り、米国の客人をもてなすに日米国旗を描いた蒔絵の盃を隅田川に流して曲水の宴を張ったりした。このような天心の放埒が許されるはずがなく、それまで不当に抑えられていた反対派の策動などもあり、明治三十一年美術学校長から失脚する。
もともと天心は自分の立場を利用して当時の美術官僚を動かし、自分の理想を実現するのに当時としてもっとも可能性の高い側の力を借りて相撲をとったまでであり、それがヘーゲルでなくてもよかったように、たまたま空席の日本美術に手を染めて、西洋画壇を駆逐したまでのことである。・・・「政治力はただ彼の方で利用したのであって、それによって彼に何の妥協もなく、そこから彼の保守性を引き出すのは、今日の人間が今日の尺度で既往をはかっているに過ぎない。」と河上はいう。
わたしから見ると、アウトサイダーとして、カリスマとして、天心の欠点であるところが河上においてはすべて長所とみなされる。例えば、今日の分類に従えば天心は「美術評論家」であるが、その美術史稿には大した発見がない。たとえ天心の思想や政治性に関する今日的解釈が保守的だとしても、敢えて弁明する必要を
河上は感じないのである。なぜなら天心は思想家でも野心家でもないからであり、美術評論家として発見がなかろうが、だいたい彼は美を発見しようとも、創造しようとも思わなかったからである。
つまり美とは天心にとって既にあるものだ。それはロマンティシズムの定義の本質にかなう憧れであり、河上は彼を明治の大ロマンティストと呼ぶ。
天心にとって幸いしたのは、美術学校長在籍中に大観、観山、春草らの卒業生が輩出し、失脚後もボストンの富豪ビゲローの寄付金で日本美術院を創立できたことだろう。明治三十年代といえば、日清・日露の勝利に国内は沸きかえり、海外は空前の日本ブームに酔った時期だが、天心には自分でブームを起こし自分でそれに乗ったようなところがあり、終始幸運はついて廻った。
一方で、外国からの金を平気で使って自分の理想を実現した天心に比べ、内村鑑三はミッションの金に潔癖であり、同志と札幌に最初の教会を建てた費用は生活を切り詰めても返すという風だったという。天心の場合は、谷中の日本美術院が経営困難に陥ると高弟四人を連れて常陸五浦に院を移して隠棲するにも、ロマンティックな悲壮美より、美術界のプロデューサーとしての演出に見えてしまうのである。
谷中から五浦へ院が移ったのは「都落ち」にちがいないが、四人の愛弟子がそろって一家を挙げてついて来て、小さな入江を抱いた広大な敷地にそれぞれが一戸を構える体のものであり、日夜一堂に会して仕事に励み、天気がよければ釣り舟を沖に出して午睡まで楽しむ生活である。もっとも移転後二か月で春草は眼を患い脱落、大観は家が失火全焼して、春草の後を追うように東京へ帰った。そのうえ主人の天心は、ボストン博物館の東洋部長として、日本とボストンを往ったり来たりである。五浦に居を構えた明治三十九年には、『東洋の理想』、『日本の覚醒』、『茶の本』の三大英文書の刊行も終わり、支那・印度・西欧の主要な旅行もすべて済ませてなに不自由ない身分だから、ボストンで半年暮らし、あとの半分は静養をかねて五浦で隠居してもいいわけだ。・・・「思うに彼のように宏大な夢を持ったロマンティストは、何がなしにもこのうえ充たされる筈のない夢に胸をさいなまれるのであろう。思えば贅沢な都々逸である。」と河上も述べている。
さて、ざっと見るかぎり、この岡倉天心の一体どこがアウトサイダーであろうか・・・? 自分の幻想を追う人・・・「ただそれが美術という無償の世界を舞台とし、しかもそれが自ら筆をとることなく、プロデューサーの形で行なわれたために、彼の正体が「科学者」の手で捕らえ難く、代わりに言行の一部が政治的色彩
をあてがって証拠物件に取り上げられるのである。然し思えば明治という実利主義万能の時代に、彼ほど非実利的なものを現実社会の再上層部に持ち込んで成功した人はなく、その点奇跡的な存在である。」・・・幻想を追う人がアウトサイダーであっても、わたしは構わない。しかし、河上がいうように天心は「幻想」を追ったのであろうか。
美術が無償の世界であることはよい。だが天心の行為は無償でなく、むしろ自分がプロデュースすることにより、それを有償にした。天心が非実利的なものを現実社会の最上層部に持ち込んで成功した稀有な人物であってもよい。しかしそれが実利万能の時代に成功したのは、天心が実利万能主義でそれに臨んだからだろう。
日本美術学校はフェノロサ・天心の線で、驚くべき復古的な色彩で始められたが、「それが成功したのは単なる国粋主義ではなく、実は彼らが近代主義に目覚め、そこから功利主義に至る道を暗示し得たからに他ならない。」と、河上自身がそれを暴露している。法隆寺の夢殿観音の蓋を開け、千年の眠りから覚まして陳列ケースに入れ、科学の光を当てるような技は、実に合理的実証精神のよくするところである。事ここに至ってわれわれは、ゴッホが見たヴィジョンと、天心らが見ようとしたヴィジョンに、決定的な相違をみた。それは同時にウィルソンの『アウトサイダー』と、河上の『日本のアウトサイダー』の違いでもある。河上が「幻想」という言葉に込めたロマン主義は、ウィルソンにも「ロマン主義的アウトサイダー」として論じた一章がある。しかし、前者に思想らしい思想がなく、後者にそれが濃厚にあるのは何故か?・・・河上の明解な解答にわたしは委ねる。
「大体明治二、三十年代の思潮を、その中の文明開化を官とし、自由民権を野とする対立に分けて、如何なる実益があるだろうか。 それに実情は、官というのは維新以来の藩閥争いであり、野というのは没落者・疎外者・純理的進歩論者の混淆であり、しかもその実力的指導者は旧幕系の操觚(そうこ)者の系統であって、思想的にこれを色分けする本質的なものは先ずない。すなわち官に功利的な文明主義があり、野に理想的な文化主義があるといった秩序立ったものではなかった。」・・・つまり思想といえるほどのものはなかった。
( Nov. 26 , 2002 )
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