波乗りとエクスタシー 第一巻

1:アウトサイダー 2:異邦人 3:荒野のおおかみ 4:超人  5:ダンサ ー
6:変身の美学 7:エピキュリアン 8:日本のアウトサイダー 9:余は如何にして… 10:異端



第一部は「波乗りとは何か?」がテーマだったが、これから始まる第二部は「サーファーとは誰か?」がテーマであり、エクスタシーを感じる主体が問題になる。本稿はまず、それが「アウトサイダーである」と仮定して、その定義がら考えていく。最初のテキストはコリン・ウイルソンの『アウトサイダー』(1956)だが、筆者の所持本は福田恒存、中村保男訳による紀伊国屋書店版で、1972年1月31日発行の第35刷である。

 




 「わたしが欲しいのは一人の女ではない。すべての女が欲しいのだ。」・・・アンリ・バルビュスの小説『地獄』(1932)の主人公は、<無名の局外者>である。「わたしは何も所有せず、何ものにも値しない。それでもなお、なんらかの償いをわたしは要求する。」・・・写真はアーサー・ペンの『ボニーとクライド』(1967)をジーン・フェルドマンが模倣したファンタジーである。

 


 サルトルの小説(『嘔吐』=1949刊)の主人公ロカンタンは、海を越え、河をさかのぼり森の奥深く踏み込んだが、「レコードを逆回転させることが不可能であると同様に」、いつも都会の酒場に戻ってくる。つまり二十世紀の人間の舞台は、狭苦しいアパートの一室や酒場であり、ロマン主義の時代のように岬の先端や森の洞窟ではない。真実に生きようとする人間は必然的に自由がなく、<世をしのぶ片隅の人>となり、すべての情熱は徒労にみえる。  ニイチェが『ツァラトストラ』の霊感を得たポルトフィーノ岬の断崖。



1、アウトサイダー

 「波乗りとは何か」・・・のテーマのもとに、われわれは第一部で『波乗りと精神』について、述べた。これを書くのに、およそ一カ年を要し、その分量は単行本にして、およそ三冊分にも相当するだろう。だが、私はそれを、日々の日記に例えている。

 この本の第二部で、『波乗りとエクスタシー』が論じられるなら、その傾向はますます強くなっても、弱まることはないだろう。なぜなら、それは書かれることを要求されていないし、読まれることを要求してもいない。私にとって、いまや書くことは、波乗りすることも同じだ。きょうのように、海が荒れた日には、なおさらそうだ。今朝、『精神』を書きあげたその筆で、白昼堂々『エクスタシー』を書き始めようという、あさましい魂胆である。私は、止まらない。それは、第一部を書きはじめたころとまったく同じだ。あれは、去年の夏だった。そして、今年もまた、夏がやってきた。私は、まったく疲れを知らない。不思議である。だが、その源泉が何かは、自分でも分かっている。それは、波乗りと、エクスタシーだ・・・。

 「波乗りとは何か」について、われわれは第一部で可能な限り、いくつかの答えを見い出してきた。そしてこの第二部でも、それはひきつづき問題にされる。だが、ここでは、<何か>すなわちWHATより、<誰か>すなわちWHO の方に、より多く比重がある。つまり、われわれは誰か、・・・である。

 波乗りが通俗化した今日、<サーファー>といえば、大人も子供もたいがいは、それとなく通じる。だが、それは通俗化した意味においてであり、これに正当な定義を下そうとすれば、手も足も出ない。それが、実状である。しかしながら、それもそのはず、これはなかなかやっかいな問題なのである。そこで私は、サーファーの定義をするために、まず<アウトサイダー>という一般語を持ち出す。なぜなら私自身、確たるたる自信もないままに、かつて、アウトサイダーを自認してきたからである。そこで、そもそもアウトサイダーとは誰のことか、どのような人間を指すのかを考えてみたい。

 「往来する人でいっぱいの街路、まかせきったように軽やかに揺れうごくドレス、スカートがまくれる。まくれながら、しかもまくれないドレスまたドレス。/店先の細長い鏡に、わたしは近づく自分の顔を見る。青ざめて、瞼が重たるい。わたしが欲しいのは一人の女ではない。すべての女が欲しいのだ。わたしは、一人また一人と、自分の周囲にそれを求める。」・・・コリン・ウイルソンは、その『アウトサイダー』(1956)の冒頭、アンリ・バルビュス(1873ー1935)の小説『地獄』(1908)の一節を引用した。

 アウトサイダーは、世をしのぶ片隅の人、それが彼の姿なのだ。「うちひしがれたわたしは、ゆきあたりばったりに衝動にしたがった。片隅からわたしを見つめていた女について行ったのだ。二人は並んで歩いた。ふたこと、みこと話をした。女は、家にわたしを連れて行き、・・・そこでわたしは、おきまりの場面を演じた。それは、何かがころがり落ちるようにあっけなく終わった。」

 戦後のフランスに現われた『地獄』の系譜を踏む作品は、かならずこれと同種の煽情主義 ゆえに糾弾されている。「眼をこらして、わたしは見た・・・隣室は、そのむきだしの姿を露呈する。」彼は、毎日ベッドの上に立って、覗き穴から隣室を窺う。服を脱ぐ女を見つめる彼は、狂乱した興奮へと自分の心を駆り立てる。すべての男女は、危険で名状しがたい衝動をもっているにもかかわらず、自分に対し、他人に対して偽装をやめない。彼自身は、真理をむねとするがゆえに、アウトサダーなのだ。これが「アウトサイダー」の主張である。ここにはたしかに自我の分裂がある。同一の肉体に猿と人間が並存し、猿の欲望がまさに満たされようとする刹那に、猿は消えて人間があらわれ、人間は猿の欲望に愛想をつかす。これがアウトサイダーの問題である。

 彼はその主張と問題のあいだで、分裂している。アウトサイダーが芸術家であることは可能だが、芸術家が常にアウトサイダーであるとは限らない。シェイクスピアやダンテ、キーツは、社会に適応した正常人であり、病気や神経障害はなかった。にもかかわらず、アウトサイダーの特徴として、よそよそしさ、非現実感がある。その眼に映じるものは、本質において、混沌(カオス)である。一度それを見た人間には、世界はもう二度と、以前と同じまともな場所となりえない。この秩序回復のために、アウトサイダーはどんな犠牲を払っても、真理を述べなければならない。混沌が混沌にすぎぬとしても、真理は述べられねばならず、混沌は正視されねばならない。

 「著者の考えがあやまっていないとしたら、・・・われわれが生物と呼ぶすべてのものの終末は近くに迫っており、それを回避する術はない。」H・G・ウェルズ(1866ー1946)の最後に出版された小冊子『追いつめられた心』は、ある啓示を記録するために書かれたような印象を与える。「もし著者が、誰もが自分はそうだと思いたがる論理的に一つのことを考え抜くことのできる人間であったなら、烈しい集中力と、絶望的な努力とをもって、人類の前途に立ちはだかる究極の破滅について、昼夜を分かたず思いをめぐらしたであろう。が、われわれは、そういうことのできる人間ではない。われわれは過去の経験との関連において生きているのであって、本来の出来事とは無関係である ・・・本来の出来事が、いかに不可避であろうとも。」・・・コリン・ウイルソンは、このパンフレットがエリオットの詩『うつろな人間』と並んで、近代文学中もっとも厭世的な主張を述べたものとして認めている。それは、人間が人間社会のなかで営む人間生活、そういう意味での人生の否認である。ウェルズは、「盲人の国では片眼の人間が王である」(『盲人の国』)と言った。それは病におかされていることを自覚しない文明にあって、自分が病人であることを承知しているただ一人の人間が、アウトサイダーであるという主張である。

 「真理とは何か」・・・ここに実存主義哲学の中心問題が、にわかに浮上する。大御所はいうまでもなく、十九世紀のキルケゴールとニイチェだ。彼らはともに修練を積んだ思想家であり、しかも、自分が「アウトサイダー」であることを誇りとした人物である。それゆえ、われわれがこの二人の作品の中に、アウトサイダーとその立場の雄弁な弁護を見い出したとしても不思議ではなかった。しかし、研究者は彼らの問題の重点をアウトサイダーから引き離し、それをヘーゲル的な形而上学へ押し戻した。ようやく二十世紀のフランスで、再びそれをアウトサイダーの問題にもどし、哲学をいかに生きるべきかを結論に導いたのが、サルトルとカミュの実存主義である。ここでコリン・ウイルソンがテキストに使った作品が、サルトルの『嘔吐』であり、カミュの『異邦人』だった。『嘔吐』も『異邦人』も、われわれの『エクスタシー』からは、遠い。なにしろ、サルトルのそれは<嘔吐>なのだから・・・。それは精神が肉体的な穢れの罠にはまってゆく感覚であり、主人公のロカンタンはそれを、肉体的な嘔吐と精神的<吐き気>として表現したのである。

 「・・・吐き気は、わたしたちの内部にあるのではない。外部のここかしこ、わたしの周囲のいたるところに、壁やズボン吊りに、わたしはそれを感じる。それは、この酒場と一体になり、わたしはその内側にいる。」・・・ここで気づくことは、主人公の居場所における異変だ。そこは酒場である。そして、吐き気の原因は、酒場の主人のズボン吊りである。「店がからになると、あいつの頭もからになる。こういう連中の生活は日々の出来事に左右されていて、自分に何も起らなくなると、彼らは存在することをやめてしまう。」・・・バルビュスの『地獄』では、それは酒場でなく、下宿の一室だった。田舎からパリに出て銀行に職を得、生活のために、金を儲けねばと思う。彼はふと、壁の上方に隣室から洩れる光りを認めた。彼のアヴァンチュールは、この日から、服を脱ぐ隣室の女のなまめかしい姿をのぞき見る代償的行為へと駆り立てた。彼が欲したものは、性交ではなく、ある漠然とした自由だったのである。風をはらむスカートが、まくれながら、しかもまくれない。パリの街をゆく女たちのまくれそうで、まくれないドレスを見た時、彼の立場は、そのうごめいた欲望のなかに潜在していた。裸体をおおいかくした女たちは、自由の象徴にほかならない。しかも、そこには腹立たしさによって悪化し、風船のようにふくれあがった性欲がある。

 ロカンタンはいう。「わたしは海を越え、都会をあとにし、河をさかのぼり、森の奥深く踏みこんだ。そして、常に他の都会めざして進んだ。女をこしらえたことも何度かあったし、男と闘いもしたが、一度として逆もどりすることはできなかった・・・レコードを逆回転させることが不可能であると同様に。」・・・彼は都会をあとにし、海を越え、河をさかのぼり、森の中に入っていった。しかし、目指していたのはつねに都会である。一度として逆もどりすることはできなかったと言いながら、その都度、都会にもどっている。そして、サルトルが言うには、「人間とは、徒労の情熱である。」・・・主題はニイチェやキルケゴールと同じ「アウトサイダー」でも、その処理法は病理学的であり、分析的になり、岬の先端や山中の洞窟が舞台の背景から消えて、近代的な都市の狭苦しい一室となる。結局、二十世紀が彼らを変化せしめたは、彼らを現代の環境の中に置いたことによる。人間が直接環境の奴隷であることは、昔も今も変わらない。だが、どんなに高尚で素晴らしい思想を聞かせたところで、夕食が欲しくなったり、バスの中で子供が泣きわめいたら、そんな思想はたちまち吹き飛んでしまう。それでもなお、アウトサイダーはロマン主義者である。彼の主要な関心事は、いまや、自分の環境が自分の欲求を、充分みたし得ないことにある。

( June 27 , 2002 )


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小説『嘔吐』の主人公ロカンタンは、ホ
テルに一人で暮らしながら酒場のマダムと性交渉があり、酒場の主人のズボン吊りに吐き気をもよおす。サルトルのいう<アンガジェ(engager)>とは、人を縛るとか、参加させるという意味であり、彼のアンガジュマンは「参加の哲学」である。「もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、・・・私はそれによって、人類全体を一夫一婦制の方向へアンガジェするのである。」とサルトルはいう。そこで実存主義が主張する<不安)とは、「自分をアンガジェし、自分は自分がかくあろうとするところの者であるのみならず、自分自身と同時に全人類をも選ぶ立法者であることを理解する人は、全面的な、かつ深刻な責任感をのがれることは出来ないだろう。」(『実存主義とは何か』1945)ということになる。 Photo : Eric Stanton , 1950s.

 




カミユの<エトランジェ>は、非現実感に悩まされたバルビュスやサルトルの<アウトサイダー>達とちがい、「すべてはそらぞらしい」というムルソーの無関心な態度は、彼の非現実感に原因がある。ムルソーの自由とは非現実からの解放であり、死が現実になったとき、彼は目覚めた。つまり自由とは、「意志の強烈さ」の別名であり、それが必ず現われるのは、生き抜こうとする意志を人間に喚び醒ます<極限状態>においてである。裁判長に十字架を見せられても悔悛しなかったムルソーが、「宇宙のやさしい無関心に心をひらいた」のは、彼自身の処刑が決まったときだった。 The fantasy of religious taboos. Photo by Serge Jacques 1994 .

 


「イサクを犠牲に捧げるアブラハム」・・・ローマのヴィア・ラティナ街の地下で発見されたカタコンベでは、同じ墓所内の墓室にキリスト教徒と並んで親ユダヤ教的キリスト教徒が埋葬されていた。また、「アブラハムの不安」は、キルケゴールの『恐怖と戦慄(おそれとおののき)』の中に詳しく述べられている。



2、異邦人


 「わたしは誰か」・・・それはエクスタシーを感じる主体である。この主体性を抜きに、われわれはエクスタシーを論ずるわけにはいかない。私はサーファーであるが、それは、「アウトサイダー」だという仮説を立てた。これを証明するのが先決だ。私は『波乗りと精神』の中で、ニイチェについて祖述した。彼をアウトサイダーの先師古仏、すなわち元祖と仰ぐからである。弟子の中からハイデッガーがあらわれて、『存在と時間』(1927)の中で、それを「実存主義」と呼んだ。彼の実存とは、「存在の光のなかに立ち出る」こと、人間が主体性の枠を破って存在そのものの光のなかに帰ることだった。しかしサルトルの場合、それは自らの存在を自らが選択する主体性の意味である。いずれにしても、ここで問題にされるのは<主体性>であって、客観性ではない。サルトルはハイデッガーから出発して、『存在と無』(1943)を著し、人間の行動はすべて挫折すると説いた。『嘔吐』(1938)はその初期の小説である。・・・「わたしは他人と変わらず、他人と口をそろえて、海は緑色だし、あそこを飛ぶ白い点はカモメだと言っていたが、それが存在していることは感じなかった。・・・そのうち、だしぬけに存在がみずからを開示した。存在は、抽象的な範疇の外見を失い、混沌とした事物のかたまりそのものとなった。」
 なにか尋常でないことが起ったことは確かだ。一方には、すべて仮定の基盤に立つ日常の生活がある。他方、この日常生活を骨抜きにしてしまう<啓示>がある。波乗りは日常ではなく、非日常である。なぜなら、それは啓示だからだ。日常生活が現実なら、それは非現実であり、アウトサイダーは世人の紐帯(ちゅうたい)を断ち切り、文明規範の否認におもむかざるをえない。そこに見い出すものは意味も、目的も、効用もない混沌である。サルトルに襲来したのは、嘔吐である。ハイデッガーは、<存在光>といった。それは嘔吐でなく、恩寵である。サルトルは、<アンガジェ>という。それは、人を縛るとか、参加させるとかいう意味である。サルトルのアンガジュマンを一言でいえば、「参加の哲学」である。彼が「人間とは徒労の情熱である」というとき、それは、どの道もどこへも行き着かないなら、どれか一つを選んで全精力をつぎ込めということである。その思想なら、ヘミングウェイの『武器よ、さらば』によって、ひと足先に示されているとコリン・ウイルソンはいう。
 では、カミュ(1913ー1960)はどうか。彼には有名な『異邦人』(1942)がある。ムルソーの<エトランジェ>は、英語の「アウトサイダー」に近い。彼は徹底した経験主義者である。なぜなら、理性についてゆけば、かならず行き詰まる。解決があるとすれば、推理ではなく、経験的態度に求めなければならないからだ。だが、彼には才能もなく、伝えるべき特別の感情もない。「きょう母が死んだ。いや、きのうだったかもしれない。たしかなことはわからない。」彼は雇い主に、母の葬式に参列するので休ませてくれと頼む。「すみません。でも、これはぼくのせいじゃありません」葬式に行った彼は、夜通し起きていたので疲労する。だが、翌日には泳ぎに行き、ある娘と恋仲になる。二人は喜劇映画を観に行き、彼の部屋に戻って、一緒に寝る。ムルソーは、女に客をとらせている男と親しくなり、その男とアラブ人のいさかいに巻き込まれ、ある日、海岸でアラブ人を射殺してしまう。自己防衛のためだったが、ムルソーは殺人容疑で裁判にかけられる。
 彼が無罪になるためには、泣いたり抗議したり、自分が偶発事故に打ちのめされていることを、訊問者たちに見せなければならない。だが、「すべてはそらぞらしい」・・・で生きてきたムルソーは、はなから無関心な態度である。「重要なものなどありはしない、何もない。そのわけをわたしはよく知っている。」裁判長は、情に厚く信心深い男で、眼に涙をうかべながら、ムルソーに十字架を見せて悔悛(かいしゅん)を迫り、彼をなんとか無罪にしようとした。しかし、ムルソーは軽い驚きをもって見やるばかりである。何を悔悛せよというのか?問題の要点となんのつながりもなく、無意味ではないか?ことここに至って、彼のアウトサイダ−的異常性格は、決定的な不利となって身にふりかかった。人生が現実でないと思うなら、こいつはどうだとばかりに、運命が鉄槌をくだす。おのれの自由を要求しない人間には、突如として危機が訪れ、裁判と処刑を受ける。カフカの『変身』では、ある朝、主人公が巨大なかぶとむしに化したように、下等な動物にまで転落する危険がある。
 「陪審のみなさん、わたしはみなさんが次の点に留意されることを望みます。母の葬式の翌日、被告はプールに行き、若い女と肉体関係を結び、喜劇映画を見に行ったのであります。わたしの言いたいことは、それだけです。」・・・検事は、それだけ言えば、十分だった。ムルソーは死刑を宣告される。彼は人生を容認し、日光や食べ物、女の身体を享受したあげく、非現実性をも受け入れる。「・・・誰も彼も、いつかは同じように死を宣告されるのだ。きみの番もやがてやってくる。それなら、殺人罪で告発された男が、母の葬儀で涙を流さなかったために処刑されたとしても、それがなんだというのだ。結局、行きつく果ては同じなのだ。・・・死を眼の前にして、母は、自由の世界に踏み入る人のように、新たな人生を始める気持ちだったにちがいない。わたしもまた、あらたな人生を始めるような気持ちだ。・・・わたしは暗い空に見入って、宇宙のやさしい無関心に心を開いた。これほど身じかに宇宙を感じると、わたしは自分が幸福だったし、いまも幸福であると思わずにいられない。」・・・異邦人ムルソーの無関心は、処刑前夜、極限状態の悟りのなかで、<宇宙のやさしい無関心>と、ひとつになった。
 「実存主義とは何か」・・・ここでコリン・ウイルソンは、「自由とは、非現実よりの解放にほかならぬ」という。ニイチェやキルケゴールによって、結縁されたアウトサイダーと実存主義が、サルトルやカミュに至って異質なものに生まれ変わった。というより、それは複雑になり、弱められたように思う。すくなくとも、この私にはそう感じられた。そこで、サルトルの『実存主義とは何か。それはヒューマニズムである』(1955刊)によって、彼の考え方をのぞいてみよう。なぜなら、彼自身が嘔吐や吐き気をもよおすように、それは気持ちよく呼吸できる空気ではないし、何か、胸がむかつく反生命的なものがあるからである。もしかしたら、それは、われわれ自身が知らぬ間に身につけてしまいながら、気がつかずにいるものかも知れないのである。この「価値なき世界」は、本質的に大人の世界であり、ニイチェが肯定した小児の遊戯とは、対極に位置するからだ。
 まず、実存主義とは、人間生活を万能にする教えであり、また一面あらゆる真理、あらゆる行動は、人間的環境と人間的主体性を内に含むと宣言する教えである。ところが、「実存主義」という言葉自体、それが流行になってしまったために、この言葉は非常に幅ひろくなり、拡張されているので、すでに何の意味もなくなってしまったのである。実のところ、それはもっとも反スキャンダル的な、もっとも厳粛な主義であり、厳密に専門家向き、哲学者向きのものだが、事を複雑にしているのは、それがキリスト教信者と無神論者の二種類あることだ。前者にヤスパースやマルセル、後者にハイデッガーやサルトルがいた。だが、両者に共通なことは、「実存は本質に先立つ」という考え、つまり「主体性から出発せなばならない」ということである。これは、従来の「本質は実存に先立つ」という考えと正反対であり、サルトルのように無神論的実存主義では論旨がより一貫している。
 たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が、少なくとも一つある。それが人間だという。ハイデッガーのいう人間的現実とは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義される。人間は最初何者でもなく、人間はみずから造ったところのものになる。その本性を考える神がいないから、人間の本性というものはない。すなわち、人間はまず未来に向かってみずからを投げるものであり、未来のなかにみずからを<投企>することを意識するものである。人間は、みずからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存して後にみずから考えるところのもの、実存への飛躍の後にみずから望むところのもの、であるにすぎない。なんだか舌をかみそうになる話だが、これがいわゆる主体性であり、そのような名で世人が彼らを非難しているものなのである。
 ところで、カミュの異邦人はアウトサイダーだが、<異邦人>のもうひとつの意味は、神の選民であることを強く意識したユダヤ教徒が、すべての非ユダヤ教徒、とくにキリスト教徒をさしたよび名である。キルケゴールが、<アブラハムの不安>と呼んだもの。実存主義者が好んで主張するところの不安とは、みずからの実存について、彼が全人類に対して、すべての責任を負っているところからくる不安である。各人がそれぞれ自分自身を選択するという意味は、各人がみずからを選ぶことによって全人類を選択するということをも意味している。卑劣漢は自分を卑劣漢にし、英雄は自分を英雄にする。物事は人間がそう決めた通りのものになって行く。大切なのは全面的アンガジュマンであるとサルトルはいう。それは「参加」の哲学であり、夢をもたないで、自分にできることをするという意味である。一方、カミュはアウトサイダーであり続けよという信念にそれぞれ到達した。この二人は、 実存主義の同じ仲間でありながら、烈しく衝突し、別々の道を歩むことになった。                                 

( June 27 , 2002 )


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 せまい自室から出ようとしない無動機な<実存主義的アウトサイダー>は、どこか反生命的なものが感じられる局外者であり、バルビュスの『地獄』の主人公のように、毎日ベッドの上に立って覗き穴から隣室を見つめるような陰湿さがつきまとう。一方、「荒野のおおかみ」のような<ロマン主義的アウトサイダー>も同様、高度に非社交的ではあるが、壁に仏陀の肖像をかけ、それがミケランジェロの絵になったり、ガンジーの肖像になったりする点が前者と異なる。 Photo by Robert Doisneau. Circa 1950 .

 


 内気でロマンチストの中年男(ハリー・ハラー)である「荒野のおおかみ」は、ヘルミーネという酒場で会った少女に「あんたは気狂いどころか、気が狂っていなさすぎるんだわ!」と教えられ目を醒ます。あたかも母親のクリノリン(十八世紀の女性が用いたスカートの張り)に隠れて猛獣(女性)から身を守ろうとする気の弱い狼のようである。

 


 自己分裂したアウトサイダーの自我は統合されなければならない。ヘッセは『シッダルタ(悉達多)』を書いて仏陀を研究した成果を、「荒野のおおかみ」のハラーに投影した。断食や瑜伽によって自我という錯覚を取り除くために東洋の神秘思想は数千年の歴史を持ったが、西洋は同じ時間をかけて自我を強めるために骨を折ったというのである。 仏陀立像 上半身 サールナート出土。



3、荒野のおおかみ


 われわれは一般にサーファーとよばれる者だが、サーファーはアウトサイダーであるという仮説から、この試論は始まっている。そして、アウトサイダーの古仏としてニイチェがいること、そこから実存主義がうまれて、二十世紀前半の流行になったこと。
 そこには、サルトルのロカンタンや、カミュのムルソーのような主人公が一世を風靡したが、実存主義そのものは、ただ流行となっただけで、その深い意味は一部少数の専門家、哲学者により明らかにされただけだということを述べた。このような現象は、それから一世紀を経たいま、「波乗り」という流行でとらえることも可能だが、われわれのなかからは未だ、ロカンタンもムルソーも出ていない。つまり、われわれは社会の中でまったく無名の存在である。それは、ほとんど知られていないといった方がよい。だが、波乗りも、それを行なうサーファーも存在している以上、それが何であり、それが誰であるか、証明されななければならないだろう。否、たとえ証明されなくても、それを知りたい欲求だけは、いぜん残るのである。ニイチェは、理解されずに世を去った。しかし、彼は自分が誰であるかを証明せずには、置かなかった。そうすることは、彼の本能の誇りが猛烈にさからうことではあったが、あえてそうする義務があった。「よく聴きたまえ!わたしこういう者だ。何はともあれ見違えてはいけない!」(『この人を見よ』)・・・と。
 見たところ、二十世紀の典型的アウトサイダーは異常性格者であり、彼の生活の背景から自然が消え、都会の狭苦しい一室に寝起きする哀れな存在である。それはあたかも人間が狂い、病んでいることの証明のようだ。彼らは実存主義者だったが、それより古いロマン主義のアウトサイダーはどうであったか・・・。コリン・ウイルソンによれば、この系図はゲーテのウェルテル青年から、トーマス・マン(1875ー1955)のトニオ・クレーガー(1903)までさかのぼることが出来るという。トニオこそは、壁穴を覗く『地獄』の主人公の先祖であり、さらには、ロカンタンとムルソーの父でもあると。しかし同時に、アウトサイダーの研究という見地に立てば、ヘッセの『荒野のおおかみ』(1928)は、彼の作品中もっとも重要な貢献を果たしているだけでなく、これまで書かれたアウトサイダー研究書の中でもっとも洞察に富み、もっとも徹底したものの一つである。
 『荒野のおおかみ』の主人公は、ハリー・ハラーという名の、白髪まじりの初老の紳士である。この小説は五十歳のヘッセ(1877ー1962)を記念する、仮借ない自己告白であり、ハリー・ハラー(H・H)は、ヘルマン・ヘッセ(H・H)その人の投影であるとされ、その鋭い文明批評とあいまって、各方面からはげしい攻撃弾劾を受けた。しかし、それから40年後の1970年のアメリカでは、若者が荒野のおおかみに共鳴し、同名(ステッペンウルフ)のロックグループが結成され、ヘッセはヒッピーによって、現代の聖者に祭りあげられたのである。ここには重要な意味が隠されている。なぜなら1970年といえば、サーファーがヒッピーと同じ範疇で括られた時代であり、この本を読むことはすなわち、彼らの精神世界を窺い知ることでもあったからである。そして、これによって分かることは、彼らがその外見や行動によって理解されている存在よりはるかに精神的で、深い教養を身につけていたということである。また、そうでなければこの本は理解できない。
 以上の理由から私は、すべてのサーファーに一度は、『荒野のおおかみ』を読むことを薦める。この小説は、あなたの「リトマス」である。・・・その男は突然やって来て、「ああ、ここはいいにおいがする」といって、屋根裏部屋を借りた。彼は高度に非社交的で、別世界の人間であり、異様に野性的で、まったく内気な存在だった。彼が思想の人間、書物の人間であって、実際的な職業を営んでいないことは、まもなくわかった。彼は悩みの天才である。ニイチェがよく使う言葉の意味で天才的であり、無際限で、恐ろしい苦悩の能力を養ったこと。このように悩んでいる人の病気は、その性質になんらかの欠陥があるからではなく、それとは反対に、天分や能力が非常に豊かなるがゆえに、それがただ調和に達していないということなのだ。その点で彼は、ヘッセが自称しているように、アウトサイダー(局外者)、世間のはぐれ者である。アウトサイダーは自己分裂した人間であり、分裂しているからには、彼の望みの第一は、<統合>されることだ。ハラ−の内面では、内気な文明人と野性的なおおかみが同居していたのである。
 「この文章をお聞きください。『人は苦痛を誇るべきであろう・・・すべて苦痛はわれわれの位階の高さを想起させるものである。』すてきです!(ノヴァーリスは)ニイチェより八十年前に言っているいるんです!そして、こういうんです。『大多数の人間は、泳げるようにならないうちは、泳ごうとしない。』言い得て妙じゃありませんか。もちろん大多数の人間は泳ごうとしません!地面に生まれついて、水に生まれついてはいません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません!そうです、考えるひと、考えることを主要事とする人は、その点では大いに成果をあげるでしょうが、まさしく地面を水と取りかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう。」と、ハラーはいう。ここで注意すべきは、われわれが地面を水と取りかえたのもさることながら、アウトサイダーは、<苦痛>を誇りにするということである。エクスタシーではなく、苦痛を、である。
 「私は幾年も禁酒して暮らし、長いあいだ断食さえしましたが、目下はまた水がめ座の星の下に、もうろうと酔った星の下にいます。」・・・実存主義とちがいロマン主義はわかりやすい。もうろうと酔った星の下とは、いかにもロマンチズムだが、それは苦痛を経験したエクスタシーである。彼の部屋にはタイ国の仏陀が壁にかかっていたが、それはミケランジェロの「夜」になったり、ガンジーの肖像にかえられたりした。書物はたえずふえた。ゲーテとジャン・パウルの全集はしきりに利用されているようだった。そして、ある日突然、彼は「手記」を残して消えてしまう。そこには、「狂人のためだけに」と、添え書きがある。この狂人とは、いったい、誰のことだろう。そこで手記をひもとくと、酒場で出会ったヘルミーネという少女が偶然にも、それを教えてくれる。「何をおっしゃるの、よまよいごとはよしてよ!あんたはちっとも気が狂ってなんかいないわ、教授さん。それどころか、あたしから見れば、あんたは気が狂っていなさすぎるんだわ!」・・・
 ところでハリー・ハラーは、自己の内なる文明人と未開人の分裂を、どのように克服したのだろう。彼は壁に仏陀を掲げたり、断食をしたように、西洋ではなく、あきらかに東洋の手法に魅せられ、おおかみと結合することにより、自分が神とひとしくなれることを知った。それによって彼がブルジョワ(一般市民)よりたとえ生存に不適格になったとしても、相反する二者を永久に調停する秘密を知りえたら、ブルジョアが到達できない強烈な次元で生きることができ、それは彼の偉大さのしるしであり、より充実した人生となってあらわれる。たとえば、彼はこういう。・・・「人間は百もの皮からできている玉ねぎである。たくさんの糸からできている織物である。古いアジア人はこのことを認識し、精確に知っていた。仏教のヨーガ(瑜伽)では、個性という錯覚を取り除くための精確な技術を発見した。人類の演じる芝居は種々さまざまでおもしろい。インドはあの錯覚を取り除くために千年も非常な努力をしてきたが、おなじ錯覚をもりたて強めるために、西洋は同様に多くの骨折りをしてきたのである。」・・・このようなアフォリズムは、「荒野のおおかみについての論文」なる一章には、枚挙にいとまがない。それは自己分析に関する重要な一章であり、「アウトサイダー論」と名づけられるものだ。
 『荒野のおおかみ』を翻訳した高橋健二は文庫本のあとがきに、コリン・ウイルソンの『アウトサイダー』から次の一節を要約して、意味深いものを感じている。「多くのアウトサイダーは、詩人もしくは聖者として自己を統一し、自己を実現する。もちろん、悲劇的な分裂と無策とに悩みつづけるアウトサイダーもある。しかし、彼らとても社会に霊的エネルギーを供給していることに変わりはない。」・・・つまり、アウトサイダー的生き方こそ、市民社会の精神的支柱であり、それは<救済の道>であることにほかならないのである。

( June 28 , 2002 )


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タイの仏教寺院。「荒野のおおかみ」のハラーはタイ国の仏陀の肖像を部屋に飾ったが、それはタイ国が南方小乗仏教の中心地であり、知的ヨ−ロッパ人があこがれた精神の<南方>だったからではないだろうか。ニイチェもまた、「南国」にあこがれていた。  

 


ニイチェによれば「ディオニュソスの秘儀」は麻薬飲料による陶酔に特徴があるが、ギリシア絵画は今日伝わっておらず、壺絵などによって想像するしかない。一方ローマはギリシアの後継者として自ら任じ、あらゆる部門でギリシアから学んだが、彼らの関心は芸術的創造に向かうより、実践面で活動する意欲の強いものだった。十八世紀に発掘されたポンペイ壁画は、ロ−マ初期の生活実景をまのあたりにし、とくに赤の色調が鮮やかでルノワールを驚嘆させた。「ディオニュソスの秘儀」 ヴィラ・オブ・ミステリー 前一世紀

 


要するにディオニュソス的陶酔とは人間の最奥の深部にある個別法則(自我)が崩壊すると同時に発現する至福の恍惚であり、「人間の最奥の深部」とは自然の、宇宙のそれと同じことである。この主体が完全に忘却の中に消え去ることが<忘我>であり、<エクスタシー(陶酔)>だが、それは自己を知るための第一条件である「自己のよりの離脱」にほかならない。彼は「踊るもののごとく」わが道を進む。いわゆる<超人>とはあくまで実存的な概念であり、観念的なそれではない。ニイチェの「アンチ・クリスト」は肉体の賛美であって反キリストではなく、反ルターである。古代ローマの「海辺で戯れる女たち」に明らかなように、ここでは中世キリスト教的な肉体の蔑視がまったく見られないのである。



4、超人


 アウトサイダーは、「異邦人」であり、「荒野のおおみかみ」であったが、ニイチェにおいてそれは「超人」にまで化した。超人とは、誰か? それは予言者であり、救済の道を説く人である。「きみに超人を教えよう。超人とは、すなわち海である!」・・・とニイチェは言った。荒野のおおかみは、カミユのエトランゼとなって、汚れた河を流れていく。なるほど、人間は汚れた河に似ている。流れゆくものは、この流れに従わなければならない。しかるにわれわれは、汚染した流れを受け入れながら、みずからは決して汚れぬ海にならならねばならぬ。これが超人のメッセージだ。覚えている人もあろう。この超人とは、すなわちこの世のアウトサイダーの別名にほかならない。コリン・ウイルソンもやはり、この一節を取り上げている。「きみの経験しうる最大のことは何か?」・・・
 この質問を投げかけることが出来るのは、ひとりそれを体験した者だけである。ニイチェはそれを体験した。具体的にいえば、処女作『悲劇の誕生』を書くまでの彼は、天才的な大学教授だった。ニイチェが学者らしい論文を書くことを期待していた学者たちは、意に反して予言者ぶった書き方をする彼を見て、手のひらを返したように、自惚れた成り上がりものと決めつけ、総がかりで彼をやっつけたのである。大学という閉鎖的な学問の府で、彼のように重大で異端的な発言が真剣に受け入れられるためには、少なくともあと十年は待たねばならなかった。リッチュル教授の推薦により、バ−ゼル大学の教授になったのはまだ二十五のときであり、『悲劇の誕生』が書かれたのはその二年後だったからである。ニイチェにとって生涯の迫害はここに始まり、彼を半狂人とみなす頑迷な学者たちの反撃に追いつめられて、しだいに独断的な自己主張を強めていくほかなかった。「汝らが体験しうる最大ものとは何か? これこそはかの大いなる軽蔑の時をいう。汝らにとって、汝らみずからの幸福と、さらに汝らの理性と道徳とが嘔吐になる時をいう」とは、以上のような体験に基づく。
 この体験はまさに、アウトサイダーの体験である。ニイチェは運が悪かった。彼は状況判断を過った結果、あの『ツァラトストラかく語りき』のような傑作すら生涯一顧だにされないまま、最後の十年は正気まで失ったのである。それまでの幸福だけでなく、理性や道徳まで嘔吐になる時とは、アウトサイダーが感じる<価値の崩壊>だが、生命感の高揚のなかに生きようとする彼は、「幸福とて貧困、不潔、または恥ずべく安楽にすぎぬ」と従来の安易な態度を否定する。この「大いなる軽蔑の時」とは、わたしが『波乗りと精神』の冒頭第一節で述べた (没落)に他ならない。それは死して生きるという意味で、成長変化をなすために、自己の現在の状態を悲劇的に滅ぼすという意味であった。(「ツァラトストラの序説一)生まれ変わった彼は、「自然」にあるすべてのものを讃嘆し、生きてあることを讃えつつ、たえず健康な歓喜にうちに生きる人間にほかならないのである。
 「神は死んだ!」というニイチェの言葉はひとり歩きし、誤解されている。彼の父はルター派の牧師であり、ニイチェ自身も「牧師の卵」と渾名され、思春期の頃には修道院いりを考えていた。しかし、熱烈なキリスト教徒として生涯を始めた彼は、結局その観念を支持できず、キリスト教徒が知的に不誠実で道徳的に怠惰である理由は、彼らの信じている観念自体に欠陥があると断じた。つまり、キリスト教徒は宗教心が足りないというのであり、そう言い切るためには、彼がそれに代わるべき信仰の体系を持っていなければならない。ニイチェは歴史的人物もしくは出来事としてのキリスト教に興味はなかったが、救済の必要性は強く感じていた。彼は一生のあいだ、予言者の熱烈さでもって自分の考えを説いたのであり、予言者というものが、宗教心のない人間であるはずがないのである。むしろ、ニイチェの願望は、あらたな宗教を始めることであった。そうすることが、完全な孤立者となることにほなならぬとしても、彼は無価値な世界から脱し、予言者としての自己の宿命に目覚めたのである。この必要を痛感しているのは自分のほかになく、それゆえ自分は単独でこの厖大な仕事を始めなければならないと決意した。
 この決意こそ、彼がアウトサイダーであることの証しである。ニイチェは言語学者としての教育を受け、若くして古典文献学の教授になれたが、不幸にも既成の制度のなかに入ることはできなかった。『悲劇の誕生』が出版されたのは1872年(明治五)の1月だが、翌73年以来激しい偏頭痛におそわれ、76年には休職のやむなくに至り、79年6月ついにバーゼル大学教授を退職した。このとき三十四歳と八か月である。彼は既成の制度から転落し、以来、荒野のまっただなかで隠遁生活を始めたのである。アウトサイダーの秘密はここにある。幸運にも既成制度のなかに受け入れられていれば、彼は発狂せずに人生を全うできたかもしれないが、その場合、あの壮大なヒロイズムによる悲劇の感動は生まれなかっただろう。「・・・かくも危険な克己の修練から人は別人となって現れ・・・疑いへの意思はかつてなく強まる。・・・人生に対する信頼は消え、人生そのものが問題となる。」とニイチェはいう。彼は安易で快適な人生を棄て、あえて危険のなかに身を落とし、克己の修練によって這い上がり、生まれ変わらなくてはならない。人間はすべて潜在的な英雄であり、天才であるのもかかわらず、ただ無気力ゆえに人々は平凡にとどまっている。彼はロマンティストである。このゆえに超人は中道、ブルジョワ的な生き方を非難し、ブルジョアであるぐらいなら、むしろ極悪非道な罪人の方がましだとさえほのめかし、彼の聴衆に対し一人のこらず「アウトサイダー」であれと呼びかける。
 『悲劇の誕生』は思想を押しのけて、デュオニュソス的陶酔の人生を讃えた。(『波乗りと精神』55、56参照) それは人間の、いな自然の最奥の深部から、個別法則の原理が崩壊すると同時に現われる至福の恍惚状態であり、原始人や未開族の聖歌が告げる麻酔飲料の作用によって、あるいはすべての自然を歓喜でつらぬく春の力強い到来によって、われわれの主体が完全な忘却のなかに消え去る忘我境である。このディニュソス的感情こそ、『悲劇の誕生』でニイチェがすべてを判断する検証規準だった。すなわち、生命力にあふれたバッカス神への礼讃崇拝こそギリシア文化の頂点であり、この感情を知らないソクラテスはギリシア文化の凋落を代表しているとして、学会にショックを与えた。しかもこの感情による検証を、同時代の哲学者や芸術家にあてはめると、ショーペンハウエルとワーグナーを除いて、すべて不合格というありさまである。彼は度を越した自己崇拝者または狂人とののしられ、次々に発表した正常な好著まで、ドイツ文化の保護者たちから非難された。
 『悲劇の誕生』以後の十年間に書かれた著書では、この理想、価値の逆転が起こる。ソクラテスが再び認められ、真理が唯一の目標となり、実証主義的な『反時代的考察』、『人間的な、あまりに人間的な』とその第二部下巻『漂泊者とその影』、『曙光」などが生まれたが、渾身の努力にもかかわらず、読者を得るより、失う方が多かった。それでも、「・・・あと数年わたしは生きねばならない。わたしの一生は危険このうえない人生になるような予感がする。ときおり爆発する機械、それがわたしなのだ。」と、ニイチェは自分を突き放している。ときおり爆発する機械は、別のところで、調子のはずれ楽器になったりした。彼は本能の全般的混迷を感じた。後の自伝ではこの十年を、「私の身に精神の栄養が全く根本的に停止してしまい、何一つ役に立つことを学び加えず、埃まみれの博識のがらくたに気を取られて、ばかばかしほど多くのことを忘れていた背後の十年。」と回想している。
 だが、このような十年を持たずして、ひとは何者かになることなど出来はしない。ドストエフスキー(1821ー1881)の豊かな智力と無限の創造衝動は、十年のシベリア流刑なくして、授からなかっただろう。ニイチェの『ツァラトストラかく語りき』もまた、彼にとっては十年の<流刑>の産物だった。それは四部からなるこの書物の第一行目に記されている。彼に固有の宗教心は、いかなる犠牲をも顧みぬ真理への意思だった。この強固な意思から生まれたものは何か・・・?
 「わたしはまだ生き、まだ考えている。わたしはまだ生きねばならぬ、まだ考えねばならぬのだから。今後わたしは常にただ肯定するものでありたい。」(『サンクタス・ヤヌアリウス』)という警句は、生まれ変わった生の<肯定形式>の産声である。彼はみずからの幸福を否定し、軽蔑して、あらゆる価値を無価値化する仕事に没頭した。根底において同じ衝動である彼の宗教心が、今度は絶対肯定の思想に向けて歩み出した。それが、<超人>である。すなわち超人とは、アウトサイダーの生き方であり、この人間の生きる道は肯定の道、讃美の道である。人間がなしうる最も偉大な行為は、永遠の否定という形態をとりながら、超人的な努力によってそれを消化し、あえて人生を讃美すること。この肯定的な態度にほかならない。
 肯定の道、讃美の道は、すなわちアウトサイダーの救済の道である。この道を歩む超人はまず第一に知性家であり、自然神秘家であり、さらに肉体を愛するするひとである。ニイチェがキリスト教の観念に最大の欠陥を認めたのは、肉体に対する蔑視だった。彼は仏陀を「深い生理学者」と呼び、「キリスト教のような憐れむべきものと混同されないように、むしろ一種の衛生学と呼ぶ方が至当」(『この人を見よ』)と、仏教主義者のようなことを言う。決して、肉体をおろそかにしないこと。それが快癒への第一歩だ。イエスは肉体を蔑視しない自然神秘家だったが、ニイチェが<アンチ・クリスト>を名乗ったのは、ルターが肉体を軽蔑したからである。中世の禁欲主義的なキリスト教は、肉体を魂の宿るとるに足らぬ小屋とし、人間はもともと完全に自由であったが、堕罪によって外物の奴隷となったのだから、救われるためには外部から内部へと注意を向けるべきだと教えた。これが肉体蔑視であるなら、ニイチェは本来、反キリストでなく、反ルターでなくてはならない。仏陀が無神論者でなかったように、ニイチェも無神論者ではなかった。

( Nov. 14 , 2002 )


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ジェリー・ロペスは「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第四番」の中で波乗を<ダンス>といっているが、それはどういう意味だろう? ニジンスキーのダンスとどこが違うのか?・・・彼にとって巨大な地球の神秘である波の力は、99%人間に死をもたらす力だが、残された1%に生命と調和する道がある。その道を選びとる力は、自分の身体の内側にある。内側にある自己が宇宙の<空>とひとつになるとき、彼のダンスは生命の循環とひとつになる。地球の水が循環して雪になるとき、彼はオレゴンの山中でスノーボードを楽しむ。彼にとってダンスとは、生命であり、水の循環である。 Gerry Lopez , Java . Photo : Asian Paradise    

 


パリ・オペラ座の練習風景。1950年ごろ。

 


ジェリー・ロペスのダンスとニジンスキーのダンスは、生命と調和し宇宙と一体になることにおいて、ちがいは見られない。ニジンスキーは敬虔なローマ・カトリック教徒であり、ダンサーとしての<自己消滅>の修練は、神への強烈あこがれ、キリストへの同化願望によって、ついに「神わざ」に達した。その芸術はローマ・カトリック信仰の原点である<ビザンチン>にまで昇華する。 聖ソフィア教会 内陣 コンスタンティノープル。



5、ダンサー


 ニイチェが苦闘のすえに到達した人間の生き方が「超人」だったが、それはアウトサイダーであって英雄でなく、予言者であり、聖者であり、天才であり、かつまた行動家だった。 究極的な生の肯定形式においては、むろん生への意思が不可欠だが、生への意思を深め、拡大することを可能にするものは、瞑想であり、絶えざる精神の苦闘であり、いかなる犠牲をも顧みず人生を肯定する<信仰的態度>である。それは体系的な哲学ではない。哲学者の体系には人間的な、あまりに人間的な限界が露出しており、ニイチェは自分以前の西洋の哲学者を、(最後は尊敬していたショーペンハウエルを含めて)、すべて阿呆とみなすに至った。なぜなら、彼らは思想を人生から分離し、高次の世界に称揚して、思想がより充実した人生を生きるための道具にすぎないことを忘れたからである。宇宙を体系のなかに閉じ込めて、「この最良の世界においてすべては最良の道をたどっている」と宣言したおめでたいヘ−ゲル的な理想主義や、代用物として道徳をもちだしたカントがまず標的にされた。
 ニイチェの全作品は、ひとつの体系を構成する部分ではなく、実存としての「超人」のたえまない自己露呈の一部である。目標としたのは、人間の<大いなる健康>だった。大学教授を若くして辞めたときの彼は、周囲の声に失望し、馬鹿どもに愛想をつかし、人生に倦み、疲れきった病人だった。しかし典型的に健康な者にとっては、病気は反対に、生命の増大に強力な刺激となる。ニイチェに「超人」が乗り移った。ツァラトストラは群集のもとを離れ、十年の隠遁生活にひきこもることによって、自己の使命を果たしはじめた偉大な健康の予言者であった。彼の眼は澄みわたり、さながら踊るもののごとく、わが道を行くではないか! この漂泊者は未見の者にあらず。幾年かそのむかし、この道を過ぎて行ったアウトサイダー(漂泊者)である。彼は踊る者、さながら<ダンサー>のようである。
 ジェリー・ロペスは『ガイアシンフォニー第四番』のなかで、波乗りを<ダンス>と述べている。もとより、彼は新しいこと言ったわけではない。それはダンスである。われわれはいま、サーファーが「アウトサイダー」であると仮定して、何例かのサンプルを挙げたが、それらはいずれも哲学者、文学者、詩人、芸術家などで、ダンスからは遠い。われわれがサーファーである以上、肉体の修練を第一の仕事としたアウトサイダーの経歴をそれに付記しないかぎり、満足のゆくものとはなりえないだろう。この条件をみたすアウトサイダーは、その宗教に関するかぎり、出発点から始めなければならない。彼は宗教から出発してはならないのであり、誰にでも理解でき容認できる立場、すなわち世の中と人生とから出発すべきなのである。この狭められた範囲のなかで、『アウトサイダー』の著者コリン・ウイルソンが提出した「手近な実例」が、<舞踊の神さま>といわれたバレエ・ダンサーのワスラフ・ニジンスキー(1890ー1950)である。
 ニジンスキーは恵まれない家庭で育ったが、九歳のとき、ペテルブルクの帝室舞踊学校に入学を許された。名舞踊家によるここでの修行は十八歳まで続けられ、終了とともに自動的にマリーンスキー劇場の一員となり、彼はプリマ・バレリーナを相手に主役を演じ、二十歳になる前にペテルブルクで有名になっていた。これに眼をつけた興行師のジアーギレフは、結成したばかりのロシア・バレエ団に彼を高額の保証で誘い、マリーンスキー劇場から休暇を認められたニジンスキーは、1910年の春にパリで公演した。このシーズンの公演によりニジンスキーは、史上まれな偉大な舞踊家として絶賛され、その名声は世界的に知れわたったのである。最初の成功にひきつづき、ヨーロッパのあらゆる首都の公演で成功を収めたニジンスキーは、ジアーギレフと共謀して、マリーンスキー劇場との契約を解除したが、二人の関係は必ずしもうまくいかず、三年後にはやくも破局を迎える。
  それというのもジアーギレフは精力旺盛な芸術愛好家であり、ニジンスキーに対する興味にはとりわけ、同性愛的傾向をともなう悪質な面があって、ニジンスキーがそれに耐えられなくなったのが真相らしい。1913年、公演旅行でジアーギレフと離れた好機に彼は若い踊り子と結婚し、ロシア・バレエ団からは解雇された。これ以後、ニジンスキーは独立して自身の率いるバレエ団にによる新作バレエをニューヨークで上演したりしたが、彼には興行師としての才能がまったくないうえ、性格がきわめて内向的であるために、際限のない心労と困惑を背負いこむ。結局、戦争の影響もあって五年後には解散の憂き目にあい、1917年12月、ニジンスキーは妻と子供とともにサンモリッツに移るが、ここに悲劇は最後の段階を迎えた。彼が発狂したのは、それから二年と経たないない二十九歳の時だという。
 以上は天才的舞踊家ニジンスキーの略歴だが、彼には発狂する直前まで書かれた『日記』が公刊されており、「アウトサイダー」の問題を研究するうえで貴重な資料になっている。「わたしは肉体に宿った神である。」と彼はいう。際限のない精神的負担と緊張状態から逃避し、サンモリッツに隠退したニジンスキーは、舞踊家をやめ、ロシアに帰って小農場で暮らすか、修道院に入ろうかと悩みながら、トルイストイやドストエフスキー、それからニイチェについて考えた。舞踊こそニジンスキーの本来の自己表現形式であり、毎日規則正しく踊ることができ、自己の生命的、本能的部分との触れ合いをとりもどすことが出来るかぎり、発狂しなかった。しかし、これといった活動をしていないことが彼をいらだたせ、気の向くままに日記をつけはじめた彼にとって、日記をつけること自体、自己表現の否定にほかならなかった。自己表現を否定することは魂の死にほかならず、創造なくして精神の均衡は破れざるを得ない。「わたしの魂は病んでいる。わたしの精神でなく、魂がである。・・・わたしの身体が病気なのではない。魂が病んでいるのだ。」・・・戦争が彼の心に重くのしかかり、死んだ兵士の幻を何度も見た。ニジンスキーのの書斎には、赤と黒の線画が氾濫していたが、彼の説明では、それらはみな死んだ兵士の顔だったのである。        
 「わたしの容貌はキリストに似ている。ただ、彼は穏やかなまなざしをもっているが、わたしの眼はきょろきょろしている。わたしは、不動の人でなく、動きの人である。」実際に彼を見た人の報告では、彼はキリストよりむしろ瞑想中の仏陀、またはチベットのラマ僧、あるいはエジプトの彫像に似ているということであった。しかし、ここで重要なのはローマ・カトリック教徒としてのニジンスキーの深い宗教的感覚であり、キリストのごとくありたいという観念が、彼の中で創造への欲求と同じくらい根源的な位置を占めていたことだろう。「わたしは神になることを欲し、それゆえ自分を変えようと努力する。踊り、絵を描き、ピアノを弾き、詩を書き、すべての人を愛したいと思う。」
 ワスラフ・ニジンスキーが生まれる一年前、母親が宿泊していた旅館が山賊に襲われ、彼女は身に痛ましいショックを受けた。成長してダンサーになったワスラフは、母を助けるために興行師のジアーギレフに身をまかせる。「心では憎んでいたが、そうしなければ母とわたしは餓死に追いやられることがわかっていたので、好いているように見せかけた。」と、『日記』のなかでワスラフは告白している。父親は妻と三人の子供を棄て、他の女もとへ走った。兄は窓から転落して、白痴になる。母親ひとりの手でワスラフは育てられた。彼が十五歳のときペテルブルグで革命が起き、死体置場に並べられた血まみれの屍のあいだを歩き、クラスメートをさがしまわった。1917年の革命では、兄を失う。「すべての人を愛したい!」・・・ワスラフはパリの娼婦にも、胸をかきむしる憐憫の情を感じた。
 キエフで生まれたロシア人のワスラフが敬虔なローマ・カトリックの信者だったことは、彼の芸術と深い関係がある。すなわち、モスクヴァは「第三のローマ」であり、その芸術はビザンツであった。作曲家のストラヴィンスキーは、ジアーギレフとニジンスキーが口論になると、かならずジアーギレフの肩をもちニジンスキーを悩ませたが、ジアーギレフによく理解できた要素(熱情、人間性、官能性)が、ニジンスキーの手にかかると全く失われてしまうのである。ドビュシーの『牧神の午後』の午後をとりあげても、結果は同じだった。ニジンスキーのバレエは、この感覚的で肉感的な曲に対しても、ギリシア陶器の模様のように重厚で角張った振り付けをした。それはビザンツ芸術の影響である。ニジンスキーは「舞踊の神様」だったが、実際にストラヴィンスキーの『春の祭典』を当時のバレエ家が踊ろうとすると、彼の振り付けでは踊れない複雑なパートが含まれていた。「神は頭脳のなかの焔である。」という彼の身振りはすべては空前のものだったという。それは酒や踊りによって、人間のなかの自己が一時的に消滅し、神の本体に溶け込む古代ギリシアのディオニュソス的陶酔にもたとえられる。「わたしは神だ、わたしは神なのだ!」・・・
 ニジンスキーの王国は肉体であった。「わたしは肉体を通して感じる、けっして知能を通さずに。」という言葉もある。それがダンサーであるならば、サーファーと似た存在であるとも言えよう。彼は修練によって、意のままに自己を放棄する力を習得した。それによってかれは、自分の演じる役そのものになりきる異常な能力を養ったのである。サーファーが波とひとつになるとき、自己が消える。<自己消滅>は、ダンサーにかぎらず、他者に一体になるための条件である。無が無を行ずる姿を手本とした世阿弥の芸術論は、この自己消滅を説いたものであろう。能はダンスであり、世阿弥はダンサーである。パトロン的存在の足利義満に少年の美貌を買われ、体をもてあそばれたことも、ニジンスキーの経験と合致する。「聖者」に共通するのは、自己の生命エネルギーを意識的に統一することにより、最高潮に達する差し潮のような生命エネルギーと内的存在との合一を達成し、時間と空間に閉じ込められている自己を解放する能力である。世阿弥やニジンスキーのように<神わざ>に達したダンサーは、この力を応用して、瞬間的に自己の内部で時と場所を他に移すことによって、完全に新しい人格に生まれ変わったかのような錯覚を観衆に与える。
 このようなダンサーの鋭敏な感覚は、並みの人間の官能の水準をはるかに超え、ジアーギレフや義満のような、並み以上の官能人をも超える。ところが、彼らのような天才的アウトサイダーはかえって、ごく普通に自己表現する平凡な能力に恵まれておらず、ニジンスキーのように、たいていの人が世間との交渉によって身につけている生活能力にも欠けていれば、彼らの立場は他人との間で虚偽にならざるを得ない。彼らがなんらかの庇護を必要とするのはこのためであり、他人の庇護が得られないアウトサイダーは、悲劇的な末路を迎える危険性が非常に高いのである。

( Nov. 15 , 2002 )


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「エピキュリアン」といえば<快楽主義者>のことであり、その名称のもとになったのがギリシアの哲学者エピクロス(前341ー270ごろ)であるが、この肖像はどう見てもありふれた享楽主義者の顔ではなく、苦悩の皺(しわ)を刻んだ顔である。このエピクロスの有名な肖像はローマ時代の模造品であるにもかかわらず、ローマ貴族的な酒池肉林からはほど遠く、彼の快楽は「パンと水」から得られるものだったという。   

 


エピクロスの三百という著作は、やがて起こったキリスト教によって激しく敵視され、亡失した。ニイチェはライプチヒ大学の学生時代に『ディオゲネス・ラエルティオスの資料について』という論文を書き、それが認められて大学をまともに出ないうちにスイスのバーゼル大学の教授として招かれる。その論文こそ、快楽主義の教祖エピクロスの哲学に詳細な検討を加えたものであり、ニイチェ自身が生粋のエピキュリアンであった。エピクロスのモットーは、「隠れて生きよ」である。 アテナイのアクロポリス 前五世紀。  
 

 


「才能もまた一つの化粧であり化粧は一つの隠蔽である。」とニイチェは言う(『善悪の彼岸』一三〇)。人間の顔全体が一つの仮面であり、彼は、熱心に変身術に気を配った。しかし、「或る人の何者であるかは、その人の才能が衰えるに及んで・・・そのひとがなしうるところを示すことをやめるに及んで、暴露される。」 ギリシア悲劇の仮面。



6、変身の美学 〜「茶髪」から「女装」まで〜


 「舞踊の神様」といわれたニジンスキーのダンスは、結局、彼の肉体を通して感じられたものを、「けっして知能を通さずに」、肉体で表現したものであった。『ワスラフ・ニジンスキーの日記』を読めば、彼のダンスに理論的なものは、ほとんど何もなかったことがわかるだろう。だからニジンスキーのダンスは、彼の肉体がなければ、創造はおろか再現することも不可能である。彼のダンスは、彼の肉体とともに、滅んだ。ところが、肉体を通して感じられたものを、知能を通して形而上学にまで高め、それを自らの肉体を通して表現したのが世阿弥(1363ー1443=『波乗りと精神』六十一参照)のダンスであり、彼は世界史にもまれな驚異的ダンサーといわねばならない。なぜなら、世阿弥のダンスは彼の肉体が滅んだあとも滅びず、今日まで<能>として繰り返し再現されながら生きつづけ、無限の生命をもったからである。われわれは<サーファー>を考察するために、典型的なアウトサイダーを列挙しつつ、その本質的類似性を確認している最中だが、ニジンスキーに関連して、ダンサーの背後にあるエクスタシーの源泉について少し述べておきたい。
 能を構成する基本的要素は、よく知られているように、「二曲三体」である。基本的な技術が舞と歌で二曲であり、その役柄が老体・女体・軍体の三体だが、このうちエクスタシーに直接関係するのは、いうまでまでもく女体である。ニジンスキーはプリマ・バレリーナを相手に主役を演じ、意のままに自己放棄してその役柄になりきったが、世阿弥の芸術は男である彼が女体を演ずるところに、すでにその特異性がある。世阿弥は美貌の少年であり、将軍義満に寵愛されたが、十七、八歳にもなれば声もかわり身体もいかつくなって、少年期の自然の美しさは失われる。彼は卑賎な芸人であり妙齢な貴婦人でなく、十八歳の青年でありもはや美貌の少年ではない。そもそも彼が女体を演ずること自体、醜悪な自己と対面することであり、その醜悪さを隠蔽することがひとつの自己表現となる。世阿弥にとってこの自己はすでに不自然であり、その醜悪さは自己に対してだけでなく、観客に対しても同時に隠蔽されなければならず、自然は意識的に恢復されなければならない。すなわち彼の表現は、自己隠蔽の行為でありながら、同時に他人を呪縛する行為でもあった。
 自己隠蔽とは一種の化粧であり、他人の目を欺く行為である。それは危ない綱渡りだ。一歩まちがえれば、指をさして人に笑われるだけではすまない。転落はすなわち<演戯>の死を意味する。このゆえに世阿弥は「初心忘るべからず」といい、「老後の初心」をいうが、美しい芸はつねに初心の不安のもっとも鋭いところに生まれ、醜悪な自己の不適合と背中あわせに生まれる。これほどまでの危険と苦痛に耐えて、彼はなぜ「女」にならなければならないのか・・・? <女装>して演じる舞いや踊りはきわめて非日常的な行動である。一般的に演劇や舞の心理的動機は、アリストテレス(前384ー前322)の『詩学』に見られる「模倣衝動」にまでさかのぼるという。人間には生まれつき模倣を楽しむ本能的欲望(模倣衝動)があり、日常的な行動の枠からはみ出したい内奥の衝動(遊戯本能)がある。しかし、人間が真に自由な存在であるならば、あえて他の存在に姿を変え、他の存在の生命を仮りに生きてみたいなどと考えるだろうか・・・? 
 女装は現代日本のトレンドのひとつだが、そこには人間の生まれ変わりたい本能的欲望があり、<茶髪>はそのもっとも安易な現象にすぎない。そもそもあなたが女に変身したいと思ったとき、あなたが男であり、女でないことは非常に不自由であり、重大な欠損状態を意味するだろう。それはつまり<不適合>である。男であるとは女でないことであり、自分であることは自分でしかないという不条理。われわれの知る楽天的な近代的自我は、自分は自分であり、それで充分だというところから出発した。しかし私がひとたび、いまある自分に満足できなくなったとき、私のあらゆる自由の条件はたちまち根底から崩れ去り、すべて不自由の条件に変わってしまう。ここに不適合の意識が芽生え、自己の自由の追究がはじまり、茶髪から女装まで、われわれの変身の美学が誕生する。
 茶髪や女装は、本来、タブーである。このタブーが今この日本で流行になり得た理由は、男であるとは男であることだと主張する楽天的な近代的自我の崩壊と、それからの解放を意味する。それは自己の自由を追究することにほかならない。しかし、トレンドとしての茶髪や女装は一時的なものだろう。それは異様な自己を追求して生きることである。一生をこの演戯に徹した世阿弥は、その意味で例外者でありアウトサイダーであるが、彼を能の始祖とし女装の名人として仰ぐなら、中世において近代的自我をはるかに超越した「超人」であり、そのたぐいまれな芸術精神は、独自の<自然哲学>から生まれた。
 世阿弥の芸術論に「衆人愛敬」がある。「ことさらこの芸、位を極めて、佳名を残す事、是、天下の許されなり。是、寿福増長なり」(『風姿花伝』奥義)という。世阿弥にとって芸術の本質は、それが成功することであり、さらにそれによって芸術家が成功することであった。「この能においては、高度な芸位を身につけ世に名声を残すこと、これが芸術家としての喜びであると同時に、能にとっても、一座にとっても繁栄を長く続けさせることになるのである。」(山崎正和訳=『世阿弥の芸術論』より)・・・このようにいう世阿弥は、アウトサイダーとして数少ない成功者の例である。ニジンスキーは発狂してから三十年、ニイチェは十年、なおこの世に生きねばならなかった。「寿福増長」という世俗的繁栄をねがう心を、世阿弥において笑うことはできない。なぜなら、彼は成功を心からねがうほど深い不安を生きたのであり、庇護者の将軍を失ってからの後半生は迫害にあう日々だったからであるが、それにもまして世阿弥は、芸術行為における人間の自己が不適合、不確実であることを知り抜いていたからである。彼の「衆人愛敬」はそこから生まれた。
 近代的自我からの解放を渇望するわれわれはもとより、アリストテレスの古代ギリシア、さらには世阿弥の時代である中世の日本でも、観客である人間はみな、すでに述べたような模倣衝動すなわち<変身願望>をもっている。人間が特定の自己でしかありえない不自由から脱出して、一瞬でも別の存在になろうとするとき、変身しようとする自分を他人はどんなに冷たい眼で見るだろうか。その冷たい眼差しの先には、彼自身が変わりたいという観客の願望がある。他人のまなざしは人間を或るものと看做すことにより、それが突然別の存在に変身することを許さない。しかし人間は同時に、模倣の本能を持つばかりでなく、模倣されたものを見て喜ぶ本能を持っている。だから観客は巧みに模倣された演技を見ることを好むが、その模倣が演技者のあからさまな演技表現となることを許さない。ここに観客の微妙な嫉妬心がはたらく。それは観客のまなざしが支配する現実の秩序を乱すからであり、変身する他人の自由を無意識に妬んでいるからである。
 この観客の微妙な心理を世阿弥は知り抜いていた。観客は露骨な演戯を見ることによって、演戯者の自由への意思を見抜き、演戯者にあって自分にない変身の自由を許さない。彼らは模倣の演技を楽しみながら、ふと懐疑的になる。そしていったん観客という他人のまなざしが懐疑的になれば、演技者の肉体は自然に対する醜い不適合をつぎつぎに露呈し、彼は二度と舞台に上がることを許されなくなるのだ。ニジンスキーには、自分が演じる役そのものになりきる異常な能力があった。彼は修練によって、意のままに自己を放棄する力を習得した。変身への意志を見せてはならない。意志のあるところには、演技者の自我があり、変身の自由がある。それを観客に見せてはならないのである。              
 このために世阿弥の芸術論はきわめて戦術的である。「女性の役柄に扮するのであれば、そのめどとなるべき要求は<体心捨力>(たいしんしゃりき)と名づけておいた通りである。女になりきった心を主体として、しなやかに身体の力を抜く要領であって、心を女の姿にしてしまえば、おのずから身体の力は抜けるであろう・・・。」(『拾玉得花』)<花>という自分の現実存在とは異質のものを開かせるのは、変身願望という側面からみれば究極のエクスタシーであるが、そのためにはまず彼自身の肉体条件を含む自然の法則と、彼をそいう現実に縛りつけているあらゆる障碍と闘わねばならない。それは苦痛であであるだけでなく、苦悩ですらある。実際、世阿弥の口から模倣の喜びすなわちエクスタシーが語られたことは一度もなく、もっぱら演じることがいかに苦渋に充ちた至難の技であるかが繰り返し述べてられているのだ。ここに秘事、秘伝の秘密が隠されている。
 「力なく、この道は見所を本とする態(わざ)なれば、その当世当世の風儀にて、幽玄を翫ぶ見物衆の前にては、強き方をば、少し物まねに外るるとも、幽玄の方へは遣らせ給ふべし。」(『風姿花伝』花修)・・・やむをない事としながらも、ここで世阿弥は観客の好みを本位として演戯を加減するべきことを述べている。それは観客本位の「衆人愛敬」の表われであり、世阿弥の世俗的妥協の態度ではなく、痛切な欲求と高い目標を掲げる者だけが持つ戦術的譲歩だった。「物まね」とは他者に扮することであり、「幽玄」とは艶なる変身の理想である。世阿弥にとっては花ひらかせる事、つまり変身する自由がなにより重要なのであり、この根源的欲求から見れば、それ以外のことはすべて二義的な問題にすぎなかったのである。       

( Nov. 16 , 2002 )


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「エピキュリアン」といえば<快楽主義者>のことであり、その名称のもとになったのがギリシアの哲学者エピクロス(前341ー270ごろ)であるが、この肖像はどう見てもありふれた享楽主義者の顔ではなく、苦悩の皺(しわ)を刻んだ顔である。このエピクロスの有名な肖像はローマ時代の模造品であるにもかかわらず、ローマ貴族的な酒池肉林からはほど遠く、彼の快楽は「パンと水」から得られるものだったという。

 


エピクロスの三百という著作は、やがて起こったキリスト教によって激しく敵視され、亡失した。ニイチェはライプチヒ大学の学生時代に『ディオゲネス・ラエルティオスの資料について』という論文を書き、それが認められて大学をまともに出ないうちにスイスのバーゼル大学の教授として招かれる。その論文こそ、快楽主義の教祖エピクロスの哲学に詳細な検討を加えたものであり、ニイチェ自身が生粋のエピキュリアンであった。エピクロスのモットーは、「隠れて生きよ」である。 アテナイのアクロポリス 前五世紀。   

 


「才能もまた一つの化粧であり化粧は一つの隠蔽である。」とニイチェは言う(『善悪の彼岸』一三〇)。人間の顔全体が一つの仮面であり、彼は、熱心に変身術に気を配った。しかし、「或る人の何者であるかは、その人の才能が衰えるに及んで・・・そのひとがなしうるところを示すことをやめるに及んで、暴露される。」 ギリシア悲劇の仮面。



7、エピキュリアン 〜「化粧と隠蔽」〜


 「かりに真理を女と仮定してみよう・・・。どうであろう?」という一句でもって、ニイチェの『善悪の彼岸』(1886)は始まっている。すべての哲学者は、この女を理解しなかったし、もとより女を獲ることはできなかった。結局、彼らが獲たのは女でなく、かの霊魂のように、太古から信じられてきた通俗的迷信にすぎなかったとすれば、所詮あらゆる種類のドグマ哲学は、気どった幼稚な初歩の戯れにすぎなかった。コリン・ウィルソンが『アウトサイダー』の中で、「(ニイチェは)自分以外の西洋哲学者を一人のこらず阿呆とみなしてしりぞけた」と言ったのは、このことである。いや、西洋哲学に代表されるプラトニズムばかりでなく、アジアのベーダーンタもドグマ哲学の戯画として、一様に否定された。ニイチェはそれまでの態度を一変し、実証主義の仮面を着て、例えばこんなことを言う。アジアやエジプトで大様式の建築が生まれたのは、あらゆる偉大な事物とともに、それが人類の心の中に永遠の要求をもって刻みつけられるためには、奇怪巨大な恐怖を喚び起こす戯画として地上を彷徨せねばならないからであり、占星学に奉仕するために、いかなる実証的な科学のためよりも以上の労力、金銭、叡智、忍耐が浪費された。
 「古代のもっとも美しき花・・・プラトーンに、どうしてあのような病気がうつったのであろう?」・・・すべての哲学者が真理を獲られなかったように、ニイチェはひとりの女さえ獲ることができなかった。彼が真剣に求婚したルー・サロメとの関係もプラトニックラブに終わり、サロメは詩人リルケのもとに走る。結局、彼はすべての情熱を著作に注ぎ込むように、運命づけられていたのである。そして、こんなことを言う。キリスト教は「大衆」むきのプラトニズムだから、数千年に及ぶキリスト教的教会的圧迫に対する闘争は、かつてないほど精神の華々しい緊張をヨーロッパにつくりだした。これほどにも緊張した弓をもってすれば、いかに遠い標的でも射当てることができるだろう。この今にあって、われらの任務はほかならぬ覚醒である!・・・プラトンを「病気」とし、キリスト教を大衆向きのプラトニズムと決めつけて、ニイチェは人々に<覚醒>を促した。その名も「未来哲学への序曲」であり、彼の著作自体が一箇のドグマ哲学と化してゆく。・・・
 世阿弥は、女を獲ようとはしなかった。女になろうとしたのである。彼の秘伝書は好色をいましめ、セックスを禁じているぐらいだ。幼名を鬼夜叉(おにやしゃ)という世阿弥は、十三歳のとき二条良基に「藤若」の名を与えられ、藤若は義満に寵愛されたという。ニジンスキーとジアーギレフとの男色関係にもたとえられるが、跡取りとして元雅、元能の二子をもった。それはオルガスムスを得るためのセックスの禁止である。一時的に誰もが神になったような錯覚をおぼえるセックスによる官能は、彼らのように異常な官能人にとってはむしろマイナスである。パリの売笑婦から「あらゆることを教えられた」ニジンスキーは、自分が必要としているのはこんなものではないと確信し、慄然として、「こんなことをするとは情けない」と女に言った。彼のエクスタシーやオルガスムスは、セックスではなく、もっと他のところにあったのである。世阿弥もそうだ。彼らはダンサーであり、ダンスすることと同時に、自分が自分でしかない不自由さから解放され、別の存在に変身することに命をかけた。世阿弥は女体にかぎらず、武士(軍体)や老人(老体)になることが出来たし、ニジンスキーはなによりもまず、神になってしまうことが出来たのだった。
 変身の奥義は先に述べたように、自己の内面から出て対象そのものになりきることだが、外面的には自然法則に従って化粧と隠蔽が不可欠である。このゆえに世阿弥は仮面をつけ、衣装にも細心の注意を払ったが、ニンジンスキーでは自己の本体が一時的に消滅し、神の本体に融けこんでしまった。ニイチェは『善悪の彼岸』の七番でこんなことを言っている。それはエピクロスがプラトンおよびプラトン派に浴びせかけた<Dionysiokolakes>という毒舌だが、その意味は文字どおりにいえば「ディオニュソスの追従者」、つまりおべっか使いということにすぎない。しかし本当の意味は、「彼らはすべて俳優である。そのなすことはことごとく贋(にせ)である」ということだった。プラトン学派の重々しい態度や芝居気たっぷりな押し出しはとても真似できないので、エピクロスはアテナイにある自分の小園に隠棲して三百冊の本を書いた。それはプラトンに対する憤怒と野心のなせるわざだったろうが、この人の何たるかを知るには百年かかった。だが、本当に知っただろうか?・・・もちろん、ニイチェはプラトン学派でなく、エピクロスに味方しているのは明らかだ。彼は、「小園の神」または「エピクロスの神」と呼んで尊敬していた。このエピクロスこそ、快楽を精神化し持続的なものにした快楽主義者、いわゆる<エピキュリアン>の元祖である。
 ところで、ニジンスキーはDionysiokolakes だろうか? 否、彼は肉体を通して感じ、けして知能を通さないという。彼が演戯するとき、ディオニュソスがそこにいる。否、ディオニュソスが彼の身体を借りてダンスしている。だから、ニジンスキーの口から「わたしは神だ、神なのだ!」という言葉が自然にでる。一方、観客もまたニジンスキーのダンスに神を見るから、彼を「舞踊の神様」と言う。この場合、彼は「俳優」であろうか? また、その為すことは偽(にせ)であろうか。・・・ニイチェは哲学者を否定することにより、学問を否定した。学者はデカダンであり、曙光のなかで本を読むのは罪悪だ。大事なのは霊魂ではなく、肉体なのだ!・・・とニイチェは主張する。
 『善悪の彼岸』の間奏曲127番にこんなのがある。「真の女性にとっては、学問は羞恥に反する。彼女は、学問によって、自分の皮膚の下を・・・さらに悪いことには、衣裳と化粧の下を覗かれるような気がする。」・・・ニイチェは世阿弥のように、仮面を必要とし、<化粧と隠蔽>をなにより重んじた。彼は極度の近視により、ほとんど球状にちかい分厚い眼鏡をかけ、口をおおうほどの大きなひげをたくわえていたが、写真を撮るとるときはいつも眼鏡をはずした。こうすることによって彼の顔は仮面のようになり、あの立派な口ひげは彼の「力への意志」や教祖的性格を演出し、その裏にある女のように鋭敏な羞恥心や陰翳を隠し、本人はその中でまったく行方をくらましてしまう。
 ルー・サロメはさすがにニイチェの仮面を見抜き、しかも敬意をはらってその観察を書きとめているが、彼と身近に接した人間はみな、透徹した思想家のような口ぶりで彼の風貌を語りはじめるのである。また、そうさせずには置かない独特の雰囲気を彼は備えていた。サロメが見たニイチェの眼は、変転する外界の印象を反映するかわりに、彼の内部をよぎるものだけを再現し、眼前の対象をはるかに超えて遠くを見ていたという。それはニイチェがいつもひとりきりでいる深淵、誰もそこへ行くことができず彼の精神がついには呑みこまれてしまった深淵であり、同じように隠遁的なもの、かつて語られたことのない孤独のけはいだが、つねにそこには偽装の喜び・・・内的生活が露出されることなしに外套と仮面を被っているようだったのである。これは果たして上手な仮面の被り方だろうか・・・?
 『曙光』の箴言三八一にニイチェの<変身術>の一端を見ることができる。やや長いが、世阿弥のそれと比較できて面白い。「かれの<一部>を知る。・・・われわれは初めて会う他人の眼には、意識している自分とはまったく違った者となって映るということを、とかく忘れる。たいがいの場合、印象を決定するのは、いきなり眼に飛びこんでくる一部にすぎない。そこでこのうえなく柔和で公正な人物でも、大きな口ひげさえ持っていれば、いわば口ひげのかげに隠れて、おさまりかえっていることができる。・・・通常の眼は、彼を大きな口ひげの付属物として見る。つまり軍人的な、怒りっぽい、場合によっては乱暴をしかねない性格と見る、・・・そこでそれ相応にこっちも構える。」・・・ここで彼は、観客に見られる立場の俳優として語っている。しかも、素人の・・・。
 玄人の俳優である世阿弥は、同時に多数の視線を感じている。彼は「一部」ではなく、一挙手一投足の「全部」を見られている。このような観客の視線を口ひげひとつ、仮面一箇で欺くことはできない。このために彼は演戯する人間の自由を守る方法として、たとえば「離見の見」という深い理論を編みだした。簡単にいえばニジンスキーのいわゆる<自己消滅>を形而上学的に理論化したもので、彼もまた舞踊の神様である。世阿弥はニイチェよりはるかに深い東洋哲学者であり、それを自覚してか彼は四十をまえにして、芸名を<世阿弥仏>とあらためた。ニイチェも化粧と隠蔽の重要性を自覚していた。しかし、世阿弥はそれを完璧に実践した。肖像画ひとつ残ってないのはこのためであろう。

( Nov. 17 , 2002 )


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コリン・ウイルソンの『アウトサイダ−』(1956)に刺激されて出版された河上徹太郎の『日本のアウトサイダー』(1959)。これを読むと、日本には「アウトサイダー」が存在しない理由がわかる。

 


「アウトサイダー」を字義的にいえば<異教徒>または<異邦人>であり、すなわちキリスト教徒でないという意味である。鎖国を廃した明治以来の立国精神は、十九世紀西洋の物質文明の成果をまるごと取り入れ、「追いつけ追い越せ」をモットーに徹底した功利的実証主義だった。西欧のそれはキリスト教と一体だから、明治維新の立国精神そのものが、キリスト教と一体ということである。札幌農学校(現北海道大学)に奉職したクラーク博士の有名なことば「青年よ大志をいだけ!」にそのピューリタン的精神は横溢し、内村鑑三や新渡戸稲造らを輩出した。   

 


またキリスト教主義の大学として新島襄は京都に同志社を創立(明治八年)、各地にミッション・スクールが建てられた。白金台に建つ明治学院大学(東京都港区=明治二十三年ごろ)。



8、日本のアウトサイダー


 『アウトサイダー』は、当時二十五歳のイギリスの一青年が発表して世界的ベストセラーになった本である。彼は十六歳で学校を出て公務員になったが肌に合わず、土方から皿洗いまでやりながら大英博物館に通い、文学や哲学書を片端から読んでこの本を書いた。自由な職業を転々としながら自分の好きなことやるのは、いつのまにか日本の若者に定着した生き方だが、その意味でコリン・ウィルソンは<フリーター>の先駆といってよい。アウトサイダーの教科書である『荒野のおおかみ』を書いたヘッセも、本屋の徒弟をしながら乱読時代を過ごしているから、ウィルソンの経歴とダブルところがある。しかし、ヘッセは詩人であり文学者であるのに対し、ウイルソンはその一ファンであり、いかにこの本がすぐれていようが、要するにディレッタントであったにすぎない。そういう彼が書いた本がベストセラーになっても、それがただ「売れた」という意味なら、取り立てて言うことはないのである。ところが、ここに日本の文芸評論家である河上徹太郎がこの本の題名を「借りて」、『日本のアウトサイダー』(1959)を書いたとなるとやや事情がちがう。
 ウィルソンの『アウトサイダー』が本国のイギリスで出版されたのが1956年。翌57年には紀伊国屋書店から翻訳が出て、河上が『日本のアウトサイダー』を出したのはその二年後である。つまり昭和三十四年だが、その当時すでにわが国でも素人作家の登場が目立ったようで、河上はこの本の「序」でこういうことを言っている。・・・「今日のわが文壇で素人だということは、もはやナイーヴだということではない。むしろ反対に、素人だから恐いもの知らずで、文学的な約束を無視し、読者の読み方となれ合って、手っ取り早い状況設定に成功した小説が書けるのだ。つまり彼らは、決して新鮮さが買われているのではなく、一種単刀直入な型破り、それに必要な語感の鈍感さ、それに伴う悪達者さが取り柄になって来る。それは素朴とか無邪気とかいうのと反対に、文学以外の観念連合をうまく取り入れることの巧みさといった、後天的な才能が眼について来るのである。」・・・ここでわたしは文学論を始めるつもりはない。ただ、昭和三十四年当時にはまだ、日本に「文壇」があったことを思うのみである。伊藤整が「逃亡奴隷説」にいうような文壇は崩壊した。
 わたしは文学や小説というものに興味を失って久しい。それがわたしに「生き方」の指針を示さなくなったからである。<逃亡奴隷説>にいう文壇とは、そこが生身の人間である小説家や詩人が生きる<実験道場>を意味していた。道場としての文壇が崩壊して、拝金主義の草狩り場となる。それが出版ジャーナリズムのたどった哀れな末路ではないか。河上徹太郎はまだ、文壇が存在していたころの文芸評論家だから元気がいい。ウィルソンのこの程度の本が、「イギリスのジャーナリズムを引っかき廻したとしたら、イギリスの思想界も非常時、焼きが廻ったという訳だ」と言って、それにぶつける格好で『日本のアウトサイダー』を出したのである。だから、「『アウトサイダー』という標題は最近イギリスでベストセラーになった、C・ウィルソンの著書から借りたものである。」と、「序」の一行目に誌しているわけで、ウィルソンのベストセラーにあやかろうとする迎合主義ではない。
 河上はまず、「アウトサイダー」の定義からはじめる。なぜなら、ウィルソンがその概念を定義していないからである。ウィルソンにとってはその方が都合よかったが、河上には具合がわるい。その定義は、「インサイダーの反対語、つまり常識社会の枠外にある人間の謂いで、アウト・ロウ、疎外された者、異教徒、異邦人、これらのお馴染みの文壇用語はすべて字義的に一応妥当するのである。或いは、叛逆、虚無、頽廃の徒も、結果的にこの仲間に入れていいであろう。」というものだ。・・・ここまでは、辞書的知識である。このなかで河上が『日本のアウトサイダー』を書くにあたって、もっとも力を注いだのが、異教徒・異邦人の謂いである。すなわちキリスト教徒ではないという意味だ。つまり西欧ではインサイダーがキリスト教徒であって、概念の対立がはっきりしている。そのうえで、日本にはアウトサイダーはいないと河上はいう。これは一体、どういうわけだろう?
 いまの定義からいうと、日本人はみなキリスト教徒になってしまう。そんな馬鹿なはずはないが、実は、その通りなのである。・・・この日本では、明治開闢以来今日まで、仏教徒だろうが、回教徒だろうが、ヒンドゥ−教徒だろうが、無神論者だろうが、みなキリスト教徒である。これは視野の大きな見方だが、つまり、近代日本の宗教は<科学>である。科学こそ、今日なお、日本の宗教であることに間違いないのだ。それが明治以来の立国精神であり、いまもそれは変わらない。そして西欧では科学とキリスト教はひとつである。これが歴史的事実だ。われわれも『波乗りと精神』において、多少なりとも世界史を古代ギリシアから繙いてきたが、この事実に異を唱えることはできない。
 しかし、キリスト教徒でない者が異教徒であるという定義に従えば、大和民族であるわれわれは、聖徳太子の時代からこのかた儒教ないし仏教の国だから、民族的には明白な異教徒である。しかも、江戸時代においては「鎖国」までして、それを守った。明治維新はその反動であり、革命である。「文明開花」とは、すなわち十九世紀西洋の物質文明の成果をできるだけ取り入れ、その遅れを取り戻すことだった。これは中学生でも知っている歴史のイロハであろう。ところが、この西洋の物質文明はどこから来ているかといえば、大学生でもすぐには答えられない難問だ。結局、現代の物質文明がたどり着いたところは、<功利的実証主義>であり、この実証主義の思想・哲学が、現代の科学文明と資本主義の社会を支えてきた。そしてこの資本主義と手を結んだのがキリスト教、わけてもプロテスタントの教えではないだろうか。だから、西洋の物質文明を受け入れたということは、同時にキリスト教を受け入れたのと同じことだから、日本人はインサイダーというわけだ。
 話をわかりやすくするために、わたしはあえて愚直な説明をしたが、同じことを河上はこう述べている。・・・「ところでアウトサイダーという観念は、一つの時代を支配する実証主義なり観念論なりの体系に対して、偶像破壊的な作用をする時に一番本領を発揮するものだといえよう。そうするとこれはいつの世にもあるものであり、また哲学とか文学とかいうものは、本質的に世の通念をただすという通念を持っているから、芸文の徒は何らかの点で多少ともアウトサイダーである。そして近代文化のうえでは、何といっても十九世紀の実証主義が大きな力であったから、その反動として起こった世紀末のニヒルや懐疑が典型的なアウトサイダーの在り方を示すのである。」・・・キルケゴールやニイチェはその代表的教祖だが、ハイデガーやサルトルにいたって、それは実証主義に対して、<実存主義>と呼ばれるようになった。上の説に従えば、二十世紀のアウトサイダー研究は、ある程度まで実存主義哲学に依存するのはやむをえないと言えるだろう。
 ところで、河上徹太郎の『日本のアウトサイダー』は、一種の列伝である。列伝ではあるが、アウトサイダーの定義を異教的なところに置いたことにより、必然的に明治時代に生きた人物を扱うことになった。明治維新は驚天動地の大革命であり、勝ち組と負け組が明確に色分けされたうえで、功利主義と物質主義が先行した世の中だから、そこに多くのアウトサイダーが脱落していったはずである。まず第一に、士農工商の世の中で最高の身分にあった武士階級が没落した。江戸時代の武士は、戦国時代のそれと異なり、二百数十年にわたって戦争がないわけだから、いわゆる武士道は精神化し、彼らは最高のインテリであったに違いない。そして彼らのほとんどが社会の最下層に零落したのだから、明治の立身出世主義に反抗して、アウトサイダーが見事な思想を開花させていいはずである。ところが現実には、すでに述べた事情から、明治以降の日本人は基本的にインサイダーであり、アウトサイダーは明確な思想の形をとらなかったのである。

( Nov. 18 , 2002 )


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クラーク門下生の内村鑑三(左から二人目)と新渡戸稲造(左から三人目)。新渡戸が有名な『武士道』を書いたように、明治初期の基督教入信者の多くは没落した武士だったところに特徴がある。

 


札幌農学校の有名な時計台(演武館)。マサチューセッツ州立農科大学の学長だったクラークは、ここでニューイングランドのピューリタン精神を鼓吹した。彼は南北戦争(1861ー65)直後のキリスト教人道主義的な軍人出身だっため、没落した武士の子弟の情熱のはけ口を受け入れるに好都合であり、その影響ははかり知れないものだった。

 


札幌農学校の有名な時計台(演武館)。マサチューセッツ州立農科大学の学長だったクラークは、ここでニューイングランドのピューリタン精神を鼓吹した。彼は南北戦争(1861ー65)直後のキリスト教人道主義的な軍人出身だっため、没落した武士の子弟の情熱のはけ口を受け入れるに好都合であり、その影響ははかり知れないものだった。    



9、『余は如何にして・・・』


 河上徹太郎の「列伝」には、典型的な「日本のアウトサイダー」として、最後に内村鑑三(1861ー1930)が取り上げられている。彼は有名な『余は如何にして基督信徒となりし乎』の著者として、当然キリスト教徒でありインサイダーのはずだが、異教徒の定義であるアウトサイダーの典型とされるのは如何なるわけか? 河上の説明を聞こう。元来アウトサイダーとは異教の徒のことであり正統に弓を引く者であるが、鑑三は日本という異教の国にキリスト教の根を据えた人であり、クリスチャンの中でも最も正統の信仰を奉じた人である。しかし河上個人としては思想の体系とは別に、「幻(ヴィジョン)を見る人」というアウトサイダーの定義を持っており、それが時にはオーソドックスで「教祖的」な存在にもなる。たとえばコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の中にも、フォックスやニューマンのような伝道者、ベーメやパスカルのような古典的な信者も列伝に掲げられているではないか。この考えを推し進めていくと、イエスが「汝らこの神殿を毀て。われ三日でこれを建てん。」といった時、イエスがすでに異端でありアウトサイダーだったのである。
 鑑三はアメリカの宣教師を嫌い、よく喧嘩した。彼らが支那の奥地で自分は洋風の生活でくつろぎながら、いたずらに受洗者の数が増えるのを誇っているような態度に我慢がならなかった。教会が単なる社交場となり牧師や長老が汚職して堕落する以前の問題として、教会がそれ自体の繁栄を目指して活動し、実績を上げることで満足するというような行為を、彼は宗教的自慰として最も嫌悪した。これが内村鑑三のいわゆる<無教会主義>であり、キリスト教団内では当時はもとより、その後も大きな波紋として残ったという。原理的に教会というものが現実社会に在る制度であり組織である以上、そこに人間の因襲的弊害がつきまとうのは当然である。それを回避するために清新な感激を新たにして神や聖書に直結しようというのが「無教会」の趣旨であった。明治三十四年に創刊された『無教会』という雑誌の巻頭言に次のような内村鑑三の言葉をわれわれは見い出す。
 「無教会」は教会のない者の教会であります。・・・天国には実は教会なるものはないのであります。・・・天国には洗礼もなければ晩餐式もありません。・・・しかしこの世に居る間は矢張りこの世の教会が必要であります。それは神の造られた宇宙であります。その天井は青空であります。その床は青い野であります。・・・
 この天真爛漫で感動的な法悦をひとことでいえば、教会主義に反対する<スピリチュアリズム>であり、イエス・キリストの教説に直結する考え方である。つまり、イエスの教えは神秘主義であり、反教会主義にほかならない。鑑三がイエスの弟子ペテロでさえ及ばない無教会主義に到達できたのは、ひとつにはこの法悦(エクスタシー)があったからだろうが、その限りにおいてこの世がそのまま至福の天国になったような法悦の裏には、信仰の純潔を護ろうとした彼の血の滲むような闘争の現実があったはずである。しかし、河上が内村鑑三を日本の典型的アウトサイダーとする理由は、教会との対立というように単純な図式ではなかった。この「日本の」が味噌であり、すでに述べたように明治維新という未曾有の大革命を抜きに、「日本のアウトサイダー」は語れないのである。
 つまり日本が西欧から近代文明を輸入するに当って、一応外見上は格好がついていても、その文明の本質であるキリスト教精神は、ほとんどわれわれの身についていないに等しい。それで日本は「近代化」したといえるのだろうか。もし日本的キリスト教というものがあるとすれば、それは如何なるもので、如何にして可能であるか。それは「何故に」ではない。内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』(明治二十七年)は、日本におけるキリスト教徒はいかにして可能かという問題に一身を捧げた内村個人の実験の記録である。それは<生きる過程>を語ったものであり、彼が<この問題を生きた>ところに真価がある。重要なのは結果ではなく、過程だ!・・・ そこにおのずと人間性がにじみ出て、結果的に世界的名著になったのであり、その逆ではありえない。
 ところで日本的キリスト教とは、鑑三がいうところの「武士的基督教」だった。明治初期のキリスト教の地盤は、大きく分けて熊本、横浜それに札幌である。熊本の海老名弾正は士族の出で土地柄も国粋的だがのちに京都の同志社に合流し、横浜の植村正久は旗本である。内村鑑三は江戸の高崎藩邸で生まれ、明治十年に十六歳で札幌農学校の官費生になった。アマースト大学留学中(1886=二十五歳)の日記に、「神は二十世紀間鍛練によりて得られたる我が国民性が米欧思想によりて全然置き換へらるるを欲し給はざるなり。基督教の美点は神が各国民に与え給ひし凡ての特性を聖(きよ)め得るにあり。福(さいわい)なる、奨励的なる思想なる哉、日本国も亦神の国なりとは。」という記事がある。それはいまだ神道的、儒教的愛国心に充ちた異教主義であり、これが鑑三の思想の根底であった。要するに彼らの回心は異教徒からクリスチャンへの抜本的な切り換えではなかったのである。
 話は前後するが、鑑三が札幌へ行ったのは、官費で最新の科学教育が受けられるという合理的な目的によるものであり、キリスト教に入信するためではなかった。「イエスを信じる者の契約」に彼が署名したのは、なかば上級生の強制によるものだったらしく、鑑三は札幌神社に参拝して、この邪教をわが国より追い払い給えと祈るような青年だった。その彼が入信の喜びを述べた感想が残っており、「新しき信仰の実際的利益は直ちに余に明白となった。」と書いているが、すでに明治開国の精神が骨の随まで<功利的>であったことを証明している。すなわち官費で学問する彼が、「実際的利益」を語るような、利益中心の世の中が明治だったのであり、この精神が成長腐敗してそのまま今日の日本が形成された。鑑三がのちに到達する「無教会主義」はこれと対極にある考え方だが、ともかく功利主義が彼らのように武士的儒教主義で育てられたサムライの子弟にまで及んだのは事実であり、しかもキリスト教に入信した多くの元士族は三大地盤を見てもわかるように、だいたいが反政府的立場にあった。日本の近代にアウトサイダーが存在しないのはこのためである。
 それでは鑑三が入信によって得た「実際的利益」とは何か? 引用の煩を厭い要約するなら、彼の入信の感想は唯一神に帰依した喜びの表明である。全力を挙げて「邪教」を拒否し駆逐しようとしていた間にも、すでに解放の喜びを感じていたことは否定できない。以前に信じていたように多くの神々(八百萬以上)に対する誓いは、種々雑多の礼拝形式をもち、東西南北にいます四方の神々に毎朝長い祈りを捧げ、途中通過するすべての神社に一々長い祈りを反復し、きょうはこの神あすはあの神というように、それぞれの神に特別な誓いを立てて、これを守るために非常な節制を自らに課した。しかし宇宙に存在するのは唯一の神であること、八百萬もの多数でないことを教えられて、「基督教的唯一神は斧を余の凡ての迷信の根に下した。」・・・神々の神を発見し、その神が自分を守ってくれることを知った以上は、もう祈りを捧げないことによって自分を罰する神々がいないのだと信じて、それからは神社の前を平気で通過できるようになった。「<然り!>と。神は一なること、多数に非ざること、これ実に余の小なる霊魂に喜ばしき音づれであった。」・・・
 これは単純に見て、多神教に対する否定ではない。唯一神を信じることによって、多数の神を礼拝する必要がなくなったところに合理的解釈があり、神々は依然として神と位階を異にしたところに存在しているのである。「雑多の礼拝形式は、この唯一の神を認めることによって今や不要」になったというのも、神々に対する偶像礼拝を絶対的に冒涜することにはならない。むしろここでは偶像礼拝を軽減されたことの解放感による喜びが第一であり、「神の発見」も自己中心的なら、「其の神が余を守り支え給ふ」というのも同じく功利的な考えから出たものである。入信の喜びは神への祈りより、神々に対する祈りからの解放にすぎないのである。明治の功利主義を代表した福沢諭吉が、お稲荷さんに小便をかけて神罰をためしたような近代性は、封建社会の制度疲労と腐敗に由来する反動であり、積極的なキリスト教精神への入信とか帰依によるものではなかったのである。
 さて、肝心の『余は如何にして・・・』を述べるまえに紙数が尽きてしまったが、それはよく注意すると「基督教徒となりし乎」ではなく、「基督信徒となりし乎」である。その入信はいま見たように合理的功利主義に根ざしているが、その後の内村鑑三は帰朝後の「不敬事件」や「非戦論」を経て先ほどの「無教会主義」、そして最後に「キリスト再臨運動」に行き着く。しかしそれらはすべて人生における「大事件」として内村の身に起こったことであり、事件に屈することなく闘志を燃やし続け、その都度みずからの思想を高めてゆく英雄的な態度に、彼のアウトサイダーとしての面目があった。『余は如何にして基督信徒となりし乎』は英文で書かれた名著として、岡倉天心の『茶の本』や新渡戸稲造の『武士道』とともに、わが国の異教文化の精髄を海外に伝えたものである。彼らは明治の草創期に海外に渡り、西欧文化によって人間形成された代表的文化人だが、彼らが異国文化を通じてわが国の異教文化を語ろうとした時、おのずと国粋主義的な言語表現に集約されていく共通性がみられた。河上の「列伝」には、岡倉の名前も挙げられているが、アウトサイダーを時代の民族主義にそって定義するなら、彼らはむしろ強烈なインサイダーだったのではないだろうか。

( Nov. 20 , 2002 )


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「眼光が炯々として、下半面が突起し、大きな口とその上に盛りあがった髯がそれをなほも強調した顔」(野上弥生子)・・・内村鑑三の顔をニイチェの有名な肖像に比較する人は多いが、彼らの共通する特徴はキリスト教に対する<異端>である。

 


字義的にいえば「異教徒」である「アウトサイダー」が、ニイチェや内村鑑三の場合、彼らがみずから「正統思想」を主張することにより、「インサイダー」にとっての<異端>とならざるを得ない。内村鑑三はもとより、ニイチェも「異教徒」ではあるまい。

 


普仏戦争に際して看護隊の一員として従軍したニイチェは、「人生への、最も強く、最も高い意志は、・・・戦争への意志、<力への意志>にあるのだ。」という意識にめざめた。一方、日露戦争に際して内村鑑三は『非戦主義者の戦死』を書いて、愛する敵に向かって突進せよという「個性的な表現」を見い出した。彼らは戦争から逃避せず、それをむしろ神秘体験と受け止めて、「生命」の高揚した境地を示している。あまりにも「純粋な意志」は、エネルギーの永遠の悦びであり、彼らにおいては<異端>にならざるを得なかった。 明治三十八年五月二十七日、「皇国の興廃この一戦にあり」といわれた日本海海戦でバルチック艦隊を迎え撃つ旗艦三笠の艦上。右から三人目秋山真之参謀、その左に東郷平八郎司令長官らが描かれている。 東城鉦太郎画 横須賀三笠保存会。    



10、異端


 内村鑑三はしばしばニイチェに似ている風貌の持ち主といわれてきたらしい。氷上英廣(ひかみひでひろ)の『ニーチェの顔』(1972)には、「日本で最も頭のいい一人だったと思ふ。頭の動きの鋭さでは無類のものがあり、その顔もニーチェを思わせるやうな鋭さがあり、それ以上のものがあったと思ふ」という武者小路実篤の追想を紹介している。また野上弥生子は、同じく『回想の内村鑑三』(鈴木俊郎編)のなかで、「眼光が炯々として、下半面が突起し、大きな口と、その上に盛りあがった髯がそれをなほも強調した顔。・・・またカーライルにも似ていると思ったし、ニーチェは、もし彼がもっと細面であったら内村さんの従兄ぐらいにはあたるだろう、と考へたこともある。」と書いていた。顔が似ていることのほか、ひとりはアンチ・キリストとして、いまひとりはイエスの信者として、偶然にも「アウトサイダー」という共通のレッテルを貼られたわけである。このふたりがアウトサイダーであることの定義は「異教徒」ではなく、「異端」である。
 ニイチェは「アンチ・クリスト」を自称したが、それは反イエスでなく反ルターと呼ぶべき現象であり、自らを「十字架にかけられたディオニュソス」と想像することで恍惚(エクスタシー)状態になることができた。彼は牧師の家に生まれ、自分も若いころ修道院に入ろうとしたように、本質的な「異教徒」ではないだろう。ただし、大学教授として学会の異端だった。一方、「余の父は立派な儒学者であった」という鑑三は生まれつき異教徒だが、入信して武士道的基督教の教祖となり、聖書研究や実践的精神の英雄として、誰にも負けないイエスの信者となって法悦(エクスタシー)を味わった。ただし、無教会主義によって教会の異端となる。しかし鑑三は教会の異端とされるまえに、明治二十四年一月のいわゆる「不敬事件」により国賊とされ、三十歳で教職を奪われ社会的に葬られるとともに、妻の病死にも会った。帝国憲法で認められた信教の自由の下で異端とされたのである。
 これは前年(1890)十月三十日に発布された教育勅語が初めて下賜された時、当時一高の講師をしていた鑑三が、全校職員生徒がこれに最敬礼した中でひとりだけ、ちょっと頭を下げただけだったので非難された事件である。国家主義的官学派の領袖井上哲次郎が不敬と決めつけたのに対し鑑三は、「足下はキリスト教徒がわが国に不忠で勅語に不敬である理由を儀式上のことに求められた。しかし儀式より大切なものがある。勅語に敬礼しないのと勅語を実行しないのと、いずれが不敬か?・・・」と激しい口調で公開状に書いた。「われわれキリスト教徒は、仏教徒、神道家、儒者その他何人よりも不忠、不幸、兄弟夫婦朋友間で不和ではない。のみならず、朝に御真影に向って敬礼しながら、夕べに盃をとって、猥らな反勅語的な言葉を平気で口にする者が文部省にも、帝国大学にも、足下の尊敬する諸寺院にもいるではないか・・・」と一矢を報いたのである。しかしこれはまだ序の口で、武者小路実篤が「ニ−チェ以上」というには当たらない「事件」だった。
 「不敬事件」は内村鑑三が日本の歴史に名を残す第一歩になったが、それは内村個人への批判からキリスト教対国家主義のそれに抽象化されており、内村はその一方の名義人として被告であるに過ぎなかった。もともと鑑三は儒教的愛国心に富んだ人物であり、天皇を畏敬するタイプの人物であったから、意識的に勅語に背いたわけではなく、その瞬間偶像のまえで敬礼しないクリスチャンの本能が兆したのだと同信の友人にうちあけている。しかし、この事件により鑑三の世間に対する覚悟は決まり、信仰の道も定まった。なぜなら、不敬事件は彼を社会的に葬っただけでなく、教会からも追放されたからである。事件後の失意のなかで鑑三が書いた『キリスト信徒のなぐさめ』(1893)の中に、「キリスト教会に捨てられし時」という一章がある。河上徹太郎の「列伝」からの孫引きだが、・・・
 「一度其内に入りて見れば猜疑、偽善、佞奸の存するなきにあらざるを知る。尖塔天を指して高く、風琴楽を奏して幽(かすか)なる處のみ、神の教会にあらざらるを知れり。孝子家計の貧を補はん為に寒夜に物をひさぐ處、是れ神の教会ならずや。貞婦良人の病を苦慮し、東天未だ白らまざる前に社殿に願をこむる處、是れ神の教会ならずや。」・・・河上はこの書を「名著」としているが、この漢文調はまさに儒教的であり、キリスト教徒への嫌悪の情を吐露している。そして教会に捨てられたお蔭で神様に拾われ、人間が見えるようになったといって、未信者にも神の福音があるという「無教会」主義になっていく。これが鑑三の処女出版だったが、翌明治二十七年には今度は英文で『余は如何にして基督信徒となりし乎』を世に問うわけである。漢文の直後に英文という鋭角的落差は、おそらく鑑三に特有のものであり、次の大事件である「非戦論」にも表われている。
 日露開戦絶対反対の表明が鑑三のいわゆる「非戦論」だが、世論が開戦論で一致し事破れるや、幸徳秋水・堺利彦らと「万朝報」退社(1903.10.12)という事態を起こす。幸徳、堺はすぐさま『平民新聞』を創刊(同年11.15)して論陣を敷くが、鑑三は開戦とともに筆鉾を収めた。これが歴史的事実だが、社会主義者の幸徳や堺らが現実の社会批評から分析しているのに対し、鑑三のそれは聖書の教えから解釈した「非戦論」だから、一般社会評論の常識では到底理解できない代物である。河上がその典型として挙げる一例が、『非戦主義者の戦死』と題する一文である。・・・
 「逝けよ、両国の平和主義者よ、行いて他人の冒さざる危険を冒せよ、行いて汝等の忌み嫌ふ所の戦争の犠牲となりて倒れよ、戦ふも敵を憎むなかれ、そは敵なるものは今は汝に無ければなり、ただ汝の命ぜられし職分をつくし、汝の死の贖罪の死たらんことを願へよ、人は汝を死に逐やりしも神は天に在りて汝を待ちつつあり、そこに敵人と手を握れよ、ただ死に至るまで平和の祈願を汝の口より絶つなかれ。」                  
 これを河上の解釈にそって要約すれば、愛する敵に向かって突進せよという以上、「汝の敵を愛せよ」というような新約的な温情主義では筋が通らない。そうかといって無抵抗主義でも諦観でもなく、ましてや義務感にともなったヘレニスティックな悲壮感でもない。鑑三の中にある武士道精神は時にそういう無償の情熱に燃えることがあるが、この場合はそれがすこしも混じっていない。「聖書」でなく、武士道」でもないとすれば、これは実にはっきりした個性的な表現であり、そこには論理がない。贖罪の死たらんとする目的意識もない。贖罪は結果でり、それを目的にしてはならない。罪なきキリストが十字架で刑死したのと同じ理由で平和主義者は戦死しなければならない。これがキリスト者の死というものであり、贖罪ということの意味である。・・・
 河上はこれだけのことを言うのに四苦八苦して、それは「今日の非戦主義者が決して許す事のできない文句であろう。或いは少なくとも理解できない言葉であろう。」とか、「私は一部の人に非難されようとも、敢えてこれを実に美しい言葉だといいたい。」というように言っている。それは確かにその通りかもしれない。だとすれば、非戦論者でさえ許せない「非戦論」を、開戦論の国民が受け入れるはずがないのである。鑑三は『万朝報退社の辞』に「ここに至りて小生は止むを得ず、多くの辛き情実を忍び、当分の間論壇より退くことに決心致し候」と書き、以後時務を論ずることをやめ、聖書研究に閉じ籠ることになった。その方が彼にとっては自然であり、日清戦争に賛成して日露戦争に反対したり、渡良瀬川事件に取材して社会主義者に接近するようなジャーナリスト的活動をやめて、やっと草鞋がひとつになり、本来の伝道者というコースをたどれるようになったわけである。
 ニイチェも鑑三に似て、時務を論ずるジャナーリスト的要素がなかったわけではない。それどころか鑑三と同じように愛国心が強く、スイスの大学に奉職していながら、わざわざドイツにもどって従軍している。「もし自分が召集されてこれを忌避したなら、代わりの誰かが往って倒れねばならぬ、だから自分は敢然銃をとって起つ」と鑑三はいったそうだが、ニイチェのは召集されないとわかって志願したので、ドイツに対する気持ちは人一倍強い。むしろその愛国心が強すぎたゆえに、ヒトラーのような独裁政治家にその思想が利用された。そうすると彼らの「異端」とは、そもそも何であろうか?
 アウトサイダーとは異教徒のことである。それはキリスト教徒ではないということだ。では、キリスト教徒の内村鑑三がなぜ、アウトサイダーと呼ばれなくてはならないか? そこにまた戻ってしまう。異端とは、正統でないということだ。それなら、「日本という異教の国にキリスト教の根をしっかり据えたひとであり、クリスチャンの中でも最も正統の信仰を奉じた人」である彼は、正統の中の正統であり、異端ではないはずだ。彼が「オーソドックスな教祖」であるということは、彼が「正統」であるという意味だ。「日本に於いてキリストの弟子と成りし者は、信仰の事に就いては米欧人に学ぶのをやめて直にキリストに学ばねばならぬ。」(『聖書の研究』=昭和三年)という内村鑑三には、自分がキリスト教の正統であることはもとより、正統のキリスト教は日本だという自負があった。
 鑑三の自負には、ニイチェのそれと通ずるところがある。鑑三は米欧のキリスト教の正統を否定し、ニイチェは自分以前のすべての哲学の正統を否定した。正統を否定することが異端であるならば、それは一応もっともであろう。しかし、彼らにはそれを否定する根拠なり思想があった。異端を含めて、アウトサイダーの問題はまだ解決しない。むしろ、深まるばかりなのである。・・・

( Nov. 21 , 2002 )


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