本朝サーファー列伝

対話篇の序

第一回:岡野教彦

NEW 私論:"いきの構造"

NEW 第二回:阿部川芳夫




本朝サーファー列伝


対話篇の序

『波乗りと精神』から生まれたもの


 わたしは『波乗りと精神』を書いた勢いで、そのまま第二部の『エクスタシー』を書きはじめましたが、途中で思いなおし本文より長い『精神』の注釈を書いているうちに、半年すぎてしまいました。「波乗りは晴耕雨読」という生活の長いわたしは、いざ書きはじめると考えが思うようにまとまらないこともあって、読者の方から「むつかしい」というご指摘を何度か受けてまいりました。それを承知のうえで、さらに長い注釈を書いているわたしとは、いったい何者でしょう・・・?
 <サーファーである>ことを除いたら、何もわからない。「波乗りとは何か?」という問いは、そこから発せられたのです。自分がわからないものを、他人が読んでわからないのは、当然でしょう。だけど、自分ではわかろうと努力している。この努力をわたしは、「タパス」(苦熱)と名づけて、波に向かうのと同じ気持ちで、机に向かうわけです。すくなくとも、そういう生活から『波乗りと精神』は生まれました。そこにどのようなことが書かれていようと、自分の人生の一年以上という時間を毎日、それに集中して費やした事実は変わりません。わたしに大事なのは、なにが書かれたかではなく、そういう時間を持てたということであり、それだけ波に乗ったということにすぎないのです。波乗りはその波に乗ることで完結しており、その<結果>というものは、どこにもありません。われわれは波と同じように、どこからか来て、どこかへ消えて行く。この「サーファーとは誰か?」が、『エクスタシー』のテーマです。             
 <WHAT>から<WHO>ヘ行く途中で、何かが変わった。<WHAT>は自己との対話ですが、<WHO>には相手がいます。『精神』の<WHAT>は一元論だったけど、『エクスタシー』の<WHO>は二元論、つまり他者との<対話>によって成立する。ここに思いがけない人物がわたしの前に現われ、二十年ぶりに、なつかしい対話が復活しました。このようにして復活した『対話篇』は、『波乗りと精神』から生まれたもので、『波乗りとエクスタシー』へつながる橋です。読者はまず、対話篇を読んでください。岡野教彦君は、三十年以上にわたって、日本のサーフィン界にこの人ありというべき<人物>です。この対話篇を読み、しかる後に、対話の奥にある真実を知りたい方は、それに続く評論篇の『岡野教彦・私論』を読んでください。『「いき」の構造』と題する『私論』は約七万字、原稿用紙にして約175枚ですが、これを読むと『波乗りと精神』から『エクスタシー』への移行がスム ーズになります。『精神』を書いたわたしが、半年もその注釈に終始していたのは、この自然の<橋>が架かるのを秘かに、待っていたからかも知れません。           
 このようにして始まった『対話篇』は、次々にバトンタッチして、終ひにはひとつのまとまった<列伝>になることでしょう。しかし、それはあくまで自然に、有機的な関係から生まれて来るものです。無味乾燥な無機的関係から生まれる仕事ではないので、今後どのように展開するかは誰にもわかりません。なぜなら、われわれ人間の誰にもわからいところに、自分の全存在を委ねていくこと、そこに波乗りの本質があるからです。

text by Hideaki Ishii( Nov. 13 , 2002 )


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